核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

唐突に、夏目漱石『坊ちゃん』論の切り口を思いついた

 これも、すでに誰かが書いていそうではあります。それも学術誌掲載論文ではなく、学生のレポートとかゼミ発表のレベルで。

 題して「あだ名をつける痛快さと、あだ名をつけられる屈辱」。

 

 あの主人公は、上司や先輩に赤シャツだの山嵐だのといった失礼なあだ名をつけて内心で呼んでいるくせに、自分が「天ぷら先生」だの「いさみはだの坊ちゃん」呼ばわりされると激怒する、まことに身勝手なやつです。ですが、それは彼に限ったことではありません。「マドンナ」「赤シャツ」というあだ名は堀田(山嵐)や下宿のばあさんとも共有していますし、生徒たちが「天ぷら」「赤てぬぐい」といったあだ名を主人公につけているのも、作中にある通りです。

 下位の者が上位の者に、屈辱的なあだ名をつけることで、権力関係にともなう自身の屈辱感を和らげ痛快さを味わうという現象。そういう現象の諸側面を、小説『坊ちゃん』は描いているのではないでしょうか。というよりも、そうした現象の幼稚さをさす言葉が「坊ちゃん」なのでは。たしか清の手紙にも、人にあだ名をつけるのはよくない、という戒めがありました。

 作品内の時間を見る限り、街鉄の技手に落ち着いた最終時点でも、清以外のほぼすべての人にあだ名をつける悪癖は治っていないようです。そうした癖を卒業し、他者(特に女性)と対等な人間関係を結べるようになって初めて、彼自身も「坊ちゃん」とは呼ばれなくなるのではないでしょうか。

 

 ……学部三年生のレポートなみというところでしょうか。心理学や社会学の知見を借りれば、論文になるかも知れません。アレンジして使いたいとか、この論をさらに批判したいという方は、お断りなくご自由にどうぞ。

 今の私は「小さな王国」論に専念したいので、この『坊ちゃん』論はブログ記事にとどめておきます。

 

 追記 あだ名についての先行論文はけっこうありました。「坊ちゃん」「坊っちゃん」や、「あだ名」「渾名」といった表記ゆれに注意してご検索ください。