論文内で言及されているシュッツおよびレヴィナスの他者論については、まだわからないことが多いのですが、示唆に富むご論文です。これはと思った箇所を引用。
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他者に不意打ちをかけ、世界を剥奪するという、差別や排除にしばしば見られる現象は、自らが不意打ちされ、世界を剥奪されるかもしれないという「不安」に促されているている(ママ)と言えるのではないだろうか。
(六〇頁)
最後に、以上のような論考から、これまでとは違う、共生への道をイメージできることを加えておきたい。我々の差別を考える視角は、多くの場合、〈罪〉の暴露であった。(略)しかし以上のように差別へと人を誘惑する最初の契機として〈不安〉を認めるのならば、差別を暴かれるべき〈罪〉ではなく、むしろ治癒されるべき〈病〉として見る道を開くことができるように思われるのである。差別者を不安におののく者として語ること、そこに解放の可能性はないだろうか。
(六〇~六一頁)
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・・・・・・差別現象を「罪」ではなく、「病」として見ること。こういうご論文を待っていました。
百年前の水平社結成以来の反差別運動にけちをつけるつもりはありませんが、差別者(と反差別者がみなした者)を烈しく糾弾するやり方「だけ」では、差別現象はなくならないのではないかと、私はつねづね思っています。小説「火つけ彦七」が描いているように、差別への反撃がさらなる暴力的な差別を生むこともあるのです(伊藤野枝がどこまでそれを自覚していたかは定かではありませんが)。
締め切りまで一〇日を切ってしまいましたが、なんとか自分なりの反差別論が書けそうな気がしてきました。郭論に全面的に依拠することになりそうですが。