差別者に媚びるとか、差別されるままでいる、というのでは決してありません。
差別者というのは、不満や満たされない欲望を持ち、その欲望を利己的な形で満たすために、差別という安易で非倫理的な手段に頼ってしまう、という仮説を私は持っています「まじめに働いているおれが貧乏なのは、〇〇人のやつらのせいだ」的な)。
そこで、差別とは別の形で、差別者たちが抱いている不満を解消させ、欲望を満たしてやることで、差別という現象を無化する、という解消法を、私は考えています。
具体的には、村井弦斎の小説「水の月」にあっては「改良手品」というエンターテイメントがそれです。札幌の水上に立ったり、エーフェル塔を出現させたり。「差別より面白いことがある」「もう差別とかどうでもいい」と思わせられればしめたものです。
現在の差別論では、そうした考えはどういう位置にあるのでしょうか。「水の月」論に入る前にもう少し学習してみます。