核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

「文学は他者を描き得るか」論 続き

 どうも考えが堂々巡りに陥ったので、書きながら考えていくことにします。

 前回の趣旨は、もし文学・芸術が他者を描き演じることを否定してしまったら(そこまで極端な論者はいないかも知れませんが、劇中のLGBTは当事者が演じるべきだという論者はすでにいます)、過去の芸術が積み上げてきた描写・演技の伝統はすべて否定され、あとには私小説・日記漫画・自画像・自撮り動画といったものしか残らなくなるのではないか、というものでした。

 確かに、描写し演技することには、暴力性が内在しています。他人が描いた自分の似顔絵や、他人がやる自分の物真似を見て、不快感を感じるのはよくあることです。

 

 「文学や芸術が何だというんだ。人を傷つけるのが文学や芸術なら、なくなった方がいいじゃないか」

 

 というご意見もあるでしょう。現に渡部直己『日本近代文学と〈差別〉』(太田出版 一九九四)に、そうした文学否定論が見られます。渡部著が有害と名指した文学作品の中には、村井弦斎閲・長野楽水著-おそらくは弦斎一人の執筆-『夜の風』も含まれます。渡部著は同書を『夜の嵐』と表記しており、実際に『夜の風』を読まずに批判していると疑われるのですが、それはそれとして。

 

 2024・3・11追記 「長野楽水」が正しい著者名なので修正しました。ひとさまを批判する文脈でミスをするのは恥ずかしいものです。なお私はもちろん、「夜の風」を読んでいます。

 

 私としては上記のような文学否定論に、抗したいと思います。他者を傷つけるのは可能な限り避けるべきですが、他者を描写し演技することでしか、得られない知見もあるのではないかと。そうした知見こそが、言葉狩りや政治的正しさの押しつけではない、抜本的な差別の解消に至る道なのではないかと。

 というのも、差別語の使用を禁止し、政治的正しさを押しつけることが、抜本的な差別の解消につながるとは、私には思えないのです。『徒然草』にある、榎木の僧正と呼ばれた僧正が木を切ると「きりくひの僧正」、切り株を掘り起こせば「堀池の僧正」と新しいあだ名をつけられた、という挿話が示すように、無責任な匿名差別者たちは、差別語が禁止されてもびくともしないのです。差別語の言い換えが提示されれば、差別者たちはその言い換え語に、新たな差別のニュアンスを込めるだけでしょう。

 差別をなくすために変わらなければならないのは、差別者の側です。そして、救いがたい差別者たちに、差別をやめさせる契機を与えられるのは、頭ごなしのお説教や啓蒙、差別語の禁止などではない、と私は考えます。

 ……では、文学や芸術が、差別者たちに差別をやめさせる契機を与える力があるか、というと、作品によるとしか答えられません。有害でしかない文学や芸術も確かにあるのです。弦斎と麗水の合作「美少年」がどちらに該当するかは、じっくり読んで判定します。