核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

文学は、差別に抗するロールモデルたり得るか

 差別は、法・制度だけでなくすことは困難であり、もう少しきめこまかく、人々のロールモデル(考え方や行動の規範)から変えていかなければならない、と私は思います。

 江戸時代や大日本帝国憲法の時代に比べれば、日本国憲法をはじめとする二〇二四年の法・制度は、ずいぶん差別に厳しくなっているはずです。にもかかわらず、政治家の麻生太郎氏や杉田水脈氏の一連の発言に見られるように、差別はなくなってはいません。彼らのような信念(?)ある差別者を変えるのは、ちょっと困難かも知れませんが。

 もうちょっと軽症な差別者、「世間が差別しているから自分も便乗する」というタイプのよくある差別者であれば、ロールモデルの提示による働きかけが有効かも知れません。ことに文学というロールモデルによって。

 「そんなのは理想論だ」と反論がありそうです。確かにこれまでの多くの文学作品は、マイノリティを安易に悪役や、こっけいな「ネタ」にはめこむことによって、むしろ差別の拡大に寄与してしまってきました。マイノリティに上からの安直な「同情」を寄せることによって、差別を固定化してしまった文学作品もあります。

 そこで、実作者ならざる文学研究者である私にできることは何か。私が扱っている明治の村井弦斎の作品にも、差別的な要素は多々あります。しかし、だからといって言葉狩りや禁書の対象にするのは、ちょっと待っていただきたいのです。その前に、作中の差別者(語り手含む)の差別意識がいかに形成され発語されているかを分析させてもらいたいのです。差別に抗するための逆ロールモデル、真似してはいけない例として提示するために。