核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

論文タイトル決定 「文学は他者を描き得るか」

 「村井弦斎・遅塚麗水合作「美少年」論 文学は他者を描き得るか」

 

 題名はこれでいこうと思います。

 他者を描く、あるいは他者を演じることについて、今日のポリティカル・コレクトネス(PC。政治的正しさ)はどうも否定的なようです。

 日本人男性とアイヌの少女が協力して宝を探す冒険漫画『ゴールデンカムイ』およびその映画化は、商業的には大成功をおさめながらも(私も面白く読みました。漫画の48話までですが)、批判の声もあります。主に、非アイヌの作者やスタッフが、マイノリティを一方的に描くことの問題について。

 また一方、LGBTが登場する映画やドラマには、当事者の俳優を起用すべきだという議論もあります。これも、マジョリティがマイノリティを演じることの暴力性、といった問題を提起しているようです。

 そうした風潮に、私は再反論をしてみたいと思うのです。再々反論の波が押し寄せるのは覚悟の上で。

 今回取り扱う小説「美少年」は、1893(明治26)年という発表年を考慮してもなお、差別的な作品です。明治の日本人の側からアイヌを一方的に利用し、北海道(そしてさらにその北方)の開拓に役立てようとする筋立てです。『ゴールデンカムイ』に劣るのはもちろん、遅塚麗水が単独で同年に書いた『蝦夷大王』と比べてもはるかに劣ります。

 そうした問題だらけの作品ではありますが、私はあえてそれを擁護したいのです。他者を描き演じることを禁止してしまったら、それは小説、漫画、演劇、映画といった芸術形態の破滅につながると。村井弦斎と遅塚麗水はどっちも本州生まれだからアイヌを描くのは不可能、どっちも男性だから女性を描くのは不可能、ついでに美少年じゃないから美少年を描くのも不可能なんてことになったら、芸術には私小説と自画像と自撮り動画しか残されないでしょう。