核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

ゆかいつうかい怪物くんは♪

 懐かしの藤子不二雄(当時の名義。A先生単独作品とのこと)アニメ、『怪物くん』(一九八〇~一九八二)の主題歌がふと脳内で流れました。ドラキュラ、オオカミ男、フランケンを従えた怪物くんが、良い怪物とコントを演じたり、悪い怪物を退治したりする物語です。そこで考えたのですが。

 愉快で痛快な物語というのは、往々にして、笑われたり退治されたりする「怪物」的存在を必要とするのではないでしょうか。

 ドイル『四つの署名』の脇役は言いました。

 

   ※

 「まるで小説を読むようでございますわ」フォレスタ夫人は溜息(ためいき)をついた。「美人の受難、五十万ポンドの宝物、食人の蛮人、木の義足をつけた悪者、―竜(ドラゴン)や騎士(ナイト)や意地悪伯爵などの出てくる平凡なのでないお膳だてが、ちゃんとそろっていますのねえ」

 「そして二人の騎士がその悪者を退治なさるのね」モースタン嬢も眼を輝かせて私を見あげた。

 (一〇五頁)

   ※

 

 問題は、現実世界(あるいはそれに近い、怪物のいない架空世界)を題材にした場合、「怪物」ポジションの悪役、汚れ役、こっけいな役に、安易にマイノリティ(障害者、外国人、少数民族性的少数者など)を割り当てる傾向が、創作物語にはあることでして。

 そうした「怪物」役のマイノリティを笑いものにする「愉快」、退治する「痛快」さが、その大多数はマジョリティである(当たり前ですね)読者の人気を支えるわけです。古くは英雄たちを罵ってこらしめられる反戦論者テルシテスを、背が低く醜いと描写したホメロスイリアス』から。

 そうした傾向は差別に加担するものであり、批判はされねばなりません。しかし、だからといって、政治的正しさをふりかざし、ホメロスからドイル、藤子不二雄に至る、「怪物」的存在が登場する作品をすべて禁書や書き換えにしてしまったら、文学の世界にはほとんど何も残らないでしょう。渡部直己氏なら文学などなくなってもいいと言うかも知れませんが、私は断固として文学を擁護します。ほかならぬ差別をなくすために。

 文学研究者である私は禁書や書き換えではなく、読み直しを主張したいのです。マイノリティを「怪物」視し差別に加担してきた過去の文学に向き合うことで、差別を生む構造そのものを分析し、現代もまた別の「怪物」的存在を作り出してはいないかとわが身を顧みること。劇薬も調合しだいで良薬となるように、過去の差別的文学も、読みようしだいで反差別に役立てられると私は考えます。

 心がまえができたところで、そろそろ弦斎・麗水論を完成させようと思います。