核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

コナン・ドイル著・延原謙訳『四つの署名』(新潮文庫 一九九一(原著一八九〇))

 ちょっと気分を変えて、ホームズ物語の第二作など読んでみます。だいぶ前に買ったのですが、筋を完全に忘れていたので再読してみました。

 殺人現場に残された四つの署名。犯人は最初から署名しているので(してないやつもいますが後述)犯人捜しの推理要素はあまりなく、50万ポンドの財宝をめぐる探索・追跡劇がメインです。以下、脇役フォレスタ夫人の作中感想を。

 

   ※

 「まるで小説を読むようでございますわ」フォレスタ夫人は溜息(ためいき)をついた。「美人の受難、五十万ポンドの宝物、食人の蛮人、木の義足をつけた悪者、―竜(ドラゴン)や騎士(ナイト)や意地悪伯爵などの出てくる平凡なのでないお膳だてが、ちゃんとそろっていますのねえ」

 「そして二人の騎士がその悪者を退治なさるのね」モースタン嬢も眼を輝かせて私を見あげた。

 (一〇五頁)

   ※

 

 そういう筋です。ああ面白かった。痛快だった。

 ……で済ませては、ポストコロニアル時代の文学研究者はつとまらないのでしょう。

 お気づきのように、この作品は身体障害者や植民地入植者や植民地現地人が悪者に割り当てられ、英国紳士であるホームズとワトスンが「二人の騎士」となって退治するという物語なのです。そもそもの事件の発端となった英国のインド支配や、それが引き起こしたセポイの乱そのものへの批判は、この作品には見られません。

 今日の政治的正しさにはなじまない作品ですが、だからといって、

 「植民地支配を美化・正当化するホームズ物はけしからん。禁書にしてしまえ」

 なんてことは、私は決して言いません。私が言いたいのは、フォレスタ夫人の言にあるような「小説」「平凡なのでないお膳立て」への欲望は、植民地への欲望とパラレルをなしているということです。小説とは意識の植民地化、とさえ言えるかも知れません(どこかの批評家が言ってたかな?)。

 私が興味をひかれるのは、署名できなかった五番目の犯人、毒矢使いの「蛮人」トンガです。自白や裁判の機会を与えられることもなく、ホームズとワトスンが同時に撃った銃弾を浴びて、テムズ河の底に沈んでいきます。あたかも人間未満の存在のように。当然、ホームズたちが殺人のとがめを受けることもありません。

 架空の人物に同情してもはじまりませんが、日没なき英国の世界戦略の陰には、無数の「蛮人」たちが犠牲になったことも忘れてはなりません。英国公使なんかの眼には、日本人も同じような「蛮人」と映っていたことでしょう。

 何を言いたかったんだっけ。結論。差別は小説の中だけにしましょう。