完全に確信のある説ではないので、書きながら考えていきます。
その説というのは、戦争・独裁・差別に依存し支えるタイプの人間というのは重なり、共通点を持つのではないかということです。
そのタイプとは、他者への依存、丸投げ型です。国家とか独裁政権とか世間といった、大きな主語に、卑小な自らを同一化しようとする心理です。
一人で闘う勇気のないタイプ、と言い換えられるかも知れません。
大江健三郎の小説、「セヴンティーン」「政治少年死す」〈一九六一)は、そうしたタイプの人間像を、実に的確に描いています。が、それらの作品が説得力を持つのは、大江の創作力が巧みな風刺画を描いたというよりは、どうも左右反転した自画像を描いたからにすぎないという気がしてなりません。
戦争・独裁・差別に依存するタイプに、思想上の左翼右翼の違いというのはまったく問題になりません。「天皇陛下」に依存するセヴンティーンも、毛沢東に依存する大江健三郎(一九六〇年代のエッセイを読めばそれは明らかです)も、一人で闘う勇気のないタイプです。
では、戦争・独裁・差別に抵抗できる人間像とは何か。最低限の条件として挙げたいのは、左右いずれの「翼」や「極」とは無縁であるということです。
宮本百合子という人は軍国主義への抵抗者だとか、非転向を貫いた人として讃えられることが多いのですが、彼女は戦後、レーニンやスターリンを礼賛する文章を発表しました(「政治と作家の現実」(一九四七))。左の独裁者に心酔している人が右の独裁政権からの迫害に耐えるのは当然で、褒めるべきことでも何でもありません。
左でも右でもなく、おのれの良心によって生きること。困難な道ではありますが、そういう生き方で戦争・独裁・差別に抗した人は実在します。社会主義者からは裏切り者呼ばわりされることも多い、絶対平和主義者の木下尚江は、戦前に言いました。
「社会主義、皇室中心主義、何(いず)れも誤り」
以前にも引用しました、木下尚江語録の一九二九(昭和四)年九月二十三日より。