核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

『徒然草』四十五段にみる、差別者の側の心理

 藤原氏の血をひく良覚僧正。僧坊に榎の木があったので、人に「榎の木の僧正」といわれ、怒って切ったら「切杭の僧正」といわれ、いよいよ腹を立てて切り株を掘り捨てたら、その跡に池が出来たために、「堀池の僧正」といわれるようになった、という話。

 作者の兼好は僧正を「極めて腹あしき人」と呼び、まるで僧正の心理が一連のあだ名の由来になったかのように書いていますが、私はそれは違うと思います。私がここで問題にしたいのは、僧正ではなく、一連のあだ名をつけた「人」、世間の匿名の差別者たちのほうです。

 「世間」に名を借りて人を差別したがる者たちというのは、被差別者側にスティグマ(わかりやすいしるし)が「ある」場合はもちろん、「ない」場合、「なくなった」場合でさえ、それを差別の根拠にしがちなものなのです。江戸時代に露骨な差別を受けていた人々が、明治になって「新平民」という呼称を与えられても(それ自体も問題なのですが)、隠微な差別がなくならなかったように。

 問題の所在は、差別される「新平民」の側ではなく、自省せずに差別をくり返す「旧平民」の側にあります。たとえ僧正が堀池を埋めても「埋め立て僧正」、その上に寺を建てても「寺建て僧正」という具合に、差別の連鎖は果てしなく続くでしょう。「人」の側が、あだ名をつけて他者を傷つけることの罪深さに、気づかない限りは。