『徒然草』の四十六段(堀池の僧正の次の段)に、強盗法印という僧が出てきます。
本人が強盗を働いたのではなく、たびたび強盗に入られたのでこう呼ばれたとのこと。強盗に入られるわ変なあだ名をつけられるわでふんだりけったりです。被害者非難というべきでしょう。
一方、『旧約聖書』には「ヨブ記」という話があります。ヨブという大富豪が、サタンに眼をつけられます。わずかの間に子供たちと財産を失い、本人も重病になってしまいます。
心配した友人たちが慰めにやってきますが、
「誰が罪がないのに滅びたものがあるか」
(こんな目にあったのは)「あなたの不義が果てしないからではないか」
とか、傷口に塩をすりこむようなことを言い出します。ヨブは悪いことをしたおぼえはなく、こんな不幸に会ういわれはないと、長々と訴えます。
友人たちとヨブに共通しているのは、「主は公正で、善人が不幸になるはずがない」という、公正世界仮説です。「ヨブ記」の冒頭を読む限り、サタンの所業は主の黙認の元で行われており、ちっとも公正ではないのですが。
公正世界仮説の困ったところは、現実に不幸な人を見た時、「あいつはそうなるようなことをしていたのだろう」とか、「前世の悪行の報いだ」といった、被害者非難に走ってしまうところです。
現実世界には主もサタンもおらず、善悪と幸不幸がぴったり結びつくとは限らないのです。「ヨブ記」とどっちが先かは知りませんが、古代ギリシアのアリストパネースは最後の作品「プルートス」で、善悪と貧富が結びつかないことを力説しています。
公正世界仮説や被害者非難と縁を切ること。責められるべきは強盗であって、強盗法印やヨブではありません。それが差別廃絶への一歩です。もし公正世界仮説が正しければ、イーロン・マスク氏は世界一の善人ということになってしまいますが、それでいいのでしょうか。