核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

「私」的反戦論から、「公」的反戦論への展開を

 1945年8月15日以降の反戦論、つまり「戦後平和主義」の多くは、悲惨な戦争体験を語り継ぎ、それを繰り返さないよう訴えるものでした(例外はありますが)。

 

 「私は戦争でこういう悲惨な体験をした。それを後の世代に語り継ごう」

 

 という反戦論を、ここではとりあえず「私」的反戦論と呼びます。

 「私」的反戦論が悪いわけではありません。しかし、「公」の側に立つと自称する右派にとっては、くみしやすく論破しやすい反戦論なのも確かです。

 

 「自分だけが悲惨でなければいいのか」

 「敵が自国に侵略してきたら、もっと悲惨なことになるじゃないか」

 

 という論破や嘲笑に、「私」的反戦論だけでは反論しづらいのです。古い例を挙げれば、日露戦争期に与謝野晶子が発表した詩「君死に給ふことなかれ」に、大町桂月という人が、「乱臣賊子なり」とけちをつけた例があります。広津柳浪という作家も、「自分の弟さえ無事ならいいのか」と与謝野詩を嘲笑するような小説を書いています。

 そこで「公」的反戦論というべきものが必要になるわけです。というと日本国憲法九条を連想する方も多いと思いますが、私は憲法九条をさらに下支えするような、強固で普遍的なロジックが必要であると考えております。日本国憲法とはあくまでも日本国だけで通用する法であって、外国に対しては通用しない法だからです。

 与謝野晶子の詩と同時代、つまり大日本帝国憲法下の日露戦争期に木下尚江が発表した小説『良人の自白』は、心情的な「私」的反戦論を抱いていた主人公が、迷いや葛藤の末に、海外の国際会議の場で、

 

 「諸君、今両国政府が急ぎつゝある日露戦争に対して吾人は全然反対せねばならぬ、特に日本人の一人として絶対的に反対の意を明白にせねばならぬ」

 

 と演説するに至る、「私」から「公」への展開・成長を描いています。

 しょせん小説の中での反戦論じゃないかと思われるかも知れませんが、小説という疑似体験は、「私」の枠から出て、「公」への展開・成長に至るための場として、けっこう馬鹿にできないと思います。