核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

古荘真敬「「祈り」についてー 聖書とW・ジェイムズを手がかりにー」

   『立命館大学人文科学研究所紀要』(2019-02)掲載。

 「祈り」という営為の得失について、まじめに考えた論文を読みたいと思い、CiNiiで「祈り 科学」で検索したら見つかったご論文です。

 古荘氏の結論は、聖書のパウロの言葉を引いて、祈りを肯定的に考えるものでしたが、残念ながら賛同できませんでした。

 同論文にも引用されているクシュナーの問いかけに、上記の結論は答えられていないと思うのです。以下、H.S. クシュナー〔斎藤武訳〕『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記岩波現代文庫、2008 年を、同論文より孫引き。

 

   ※

 「なぜ、善良な人が不幸にみまわれるのか?」この問いこそが重要なの
です。これ以外のすべての神学的な会話は、気晴らしにしかすぎませ
ん。」27)
 という、クシュナーの神義論的な問いかけに対して、ここまでのわれわれの
考察は、まだ何も答えることができていないのではないか。
「宗教があまり役に立っていないことの理由は、たぶん、ほとんどの宗
教が、悲嘆にくれている人びとに対し、彼らの痛みをやわらげようとす
るよりも、多くの思いと時を、神を正当化し弁護することに向け、「悲
劇は本当は良いことであるし、不幸に思えるこの情況も本当のところは
神の偉大なご計画の中にあるのだ」と説得しているように思われること
にあります。[…]そのような慰めの言葉は、どんなに善意のつもりで
あったとしても、傷つき痛みに耐えている人びとにとっては、「自分を
可哀相がるのは止めなさい。このことがあなたに起こったのにはちゃん
とした理由があるのですよ」と、たしなめているように感じるのです」28)。

   ※

 

 「ヨブ記」というのは前にも紹介しましたが、家族と財産を一度に失ったヨブに、信心深い友人知人が、まさに「自分を可哀相がるのは止めなさい。このことがあなたに起こったのにはちゃんとした理由があるのですよ」という趣旨の、まったく慰めにならない言葉を投げる、聖書の一挿話です。信心深さというのがいかに人を傷つけるものであるか、宗教がいかに役に立たないかを、よく示しています。

 祈りというのは、せいぜい良く言っても、「悲鳴」と同じようなものだと思うのです。苦痛を他人に示せるし、少しは主観的な苦痛がやわらぐかも知れませんが、それだけです。苦痛の根本的な解決には結びつきません。ましてや、苦痛を受けている他人と一緒に悲鳴を上げても、誰が本当の被害者なのかわからなくなって、かえって邪魔なだけでしょう。

 本当に他者たちの苦痛を、根本的に取り除きたいのであれば、まず祈るのをやめることです。悲鳴を上げながら患者を治療することはできません。

 以上の理由から、古荘論には賛同できませんでした。次は祈りのマイナス面を扱った論文も読みたいものです。