核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

ドミノと指

 アドルノという人はヨーロッパ文化そのものを、アウシュヴィッツユダヤ人虐殺を生み出した遠因と考えていたようです。私にその論を正面から反駁する力はありませんが、違う見方を提示したいとは考えています。文化という巨大で扱いづらい相手ではなく、個人という結節点を相手にしたいという方向性です。

 たとえば北原白秋。というと、「北原白秋だけが悪いのではない」「万歳ナチスとか特攻礼賛は当時の誰にでもあてはまる」という反論がありそうです。が、私は北原白秋を批判するのが、唯一の「正解」だと言っているのではなく、「最適解」だと考えているのです。

 ナチスドイツという組織を、巨大なドミノ、あるいはピタゴラスイッチにたとえます。最初のNSDAP党員ではなかったにしろ、最初のひとはじきをやったのがヒトラーという個人であることは疑いないでしょう。「ユダヤ人差別は当時のドイツ人の多くにあてはまる」「ヒトラーだけが悪いのではない」などという論は、問題の本質をぼやけさせるだけでしょう。ヒトラーはドミノの一枚ではなく、はじく指の側なのです。

 日本にあっても、ナチス礼賛をやった書き手は、北原白秋以前にもいたことが、国会図書館のデジタルコレクションをざっと検索するだけでもわかります。しかし、アルスという大出版社、山田耕筰という大作曲家の作曲を背景とした、北原白秋の影響力は群を抜いています(北原の詩作がそれに見合うものとは、私には思えませんが)。北原もまた、なだれを打って倒れるドミノの一枚ではなく、動きの弱いドミノを外からはじいた指の側に属します。小林秀雄の一連のヒトラー礼賛でさえ、北原より二年も後なのです。日独伊三国同盟の成立はさらにその後です。

 マルクス主義者は人間をすべてドミノ視する唯物史観に陥りがちですが、私は、「ドミノ」型人間と「はじく指」型人間を区別する必要があると考えます。前者は偉くないとか、後者のほうが偉いとかいう意図はまったくありませんが、注意すべきは後者という意味です。

 私は、北原白秋がやったのとは反対の方向に、つまり民主と平和の方向にドミノをはじく指でありたいと念願していますが、分不相応な願いかもしれません。そうだとしても、せめて独裁と戦争の方向には倒れないドミノ、流れを変えるドミノではありたいと思います。