核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

ほんと、体あたりが好きな北原白秋

 北原の自爆・体あたり詩の紹介も、『大東亜戦争 少国民詩集』に関してはこれで最後です。題は「まかせろ」。

 

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 僕の兄さん、海軍だ。

 いいな、少年飛行兵。

 ゆくぞ、雷撃、体あたり。

 俺にまかせろ、さう笑ふ。

 (『白秋全集28 童謡集4』三七四頁)

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 雷撃ってのは積んでる魚雷を投下することであって、その後に爆発物なしで体あたりしても無意味だとは思いますが、北原は知ったことではありません。体あたり自体が目的です。

 「そういう戦争文学への批判って、誰にでもあてはまるんじゃないですか?」との反論があるかも知れません。近々私は戦争詩をかたっぱしから読む作業にとりかかるつもりですが、それ以前に言えることは、小林秀雄が日本を代表する批評家であったのと同じように、北原白秋は日本を代表する詩人であり、ゆえに責任も重大であること。

 もう一つは、北原白秋は軍部に脅されたりお金のためにしぶしぶこうした詩を書いていたわけではないこと。彼は晩年視力を失うのですが、それを兵士の名誉の負傷になぞらえ、自らが戦争参加者であることを誇った一文が全集にありました(書誌情報はメモし忘れたのでまたいずれ)。それさえもポーズだとかアイロニーだとか言うのは、むしろ北原に失礼でしょう。

 さらに一つは、自爆・体あたりへの執着。それが時期的に「異常」なのかどうかは、それこそ同時期およびそれ以降の特攻言説を読み漁らないとわかりませんが、戦争にまだ勝っていた(あるいは、そう大本営が発表していた)時期に、自爆しろ体あたりしろと安全圏で叫ぶ詩人というのは、一般常識として異常です。北原独自の異常性にしろそうでないにしろ、その異常性の構造は分析されねばならないでしょう。

 それらの理由から、私は北原の『大東亜戦争 少国民詩集』についての論文を書くつもりでいます。