核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

第二単著計画、『独裁の止め方』あるいは暗殺・戦争・暴力革命否定論

 第一単著『戦争の止め方』刊行のあてもないのにと言われそうですが、とらぬタヌキの皮算用なのは承知の上です。『戦争の止め方』の結論を出し、どうにか商業出版にこぎつけたら、次は『独裁の止め方』という本を書こうと思います。

 というのも、今私が構想している「戦争の止め方」は、日本国憲法が機能している間は可能でも、独裁的な方向へ改憲されてしまったら不可能なのです。改憲そのものを阻止するための努力は私も惜しみませんが、万一の改憲への備えとして、また日本周辺に実在する独裁諸国家への備えとして、『独裁の止め方』は書かれなければならない本です。

 独裁の止め方として子供でも思いつくのは、「どくさいしゃをあんさつする」でしょう。私はそれに対して、頭ごなしに非暴力論をふりかざす気はありません。ただ、暗殺という手段に果たして実効性があるかどうかは、功利主義的に、歴史の実例にもとづいて検討されねばならないとは思います。暗殺未遂が独裁体制をますます強化してしまったり(ヒッ……トラーを出すと思ったでしょ?私が念頭に置いているのはヒッピアスです)、暗殺成功のあとに新たな独裁者が出現した例も多いのです。止めるべきは独裁そのものであって、個々の独裁者ではないことを忘れてはなりません。

 もう一つ誰でも思いつきそうなのは、「外部からの戦争によって独裁国家を打倒する」でしょう。それに対しては、それこそ頭ごなしに否定するつもりです。古来、そうした名目で正当化された戦争のなんと多かったことでしょうか。それらは犠牲に見合った成果を挙げたでしょうか。

 今一つ誰でも思いつきそうなのが、「内部からの暴力革命によって独裁体制を打倒する」です。もう、いいかげんにしろと言いたいです。ロベスピエールはルイ16世より人道的だったでしょうか?レーニンはニコライ2世より民主的だったでしょうか?暴力革命がさらなる独裁者しか生まないことは、私は歴史上の豊富な例を挙げて論じるつもりです。

 そうした暴力的手段にひととおり反論した上で、私は非暴力的かつ現実的な、独裁の止め方を論じてみたいのです。そんな実例はないと言われるかも知れませんが、虚例、つまり文学作品の中での例はあります。私が去年から書きあぐねている谷崎潤一郎小さな王国」論も、「独裁者の止め方」という方面から見れば、また違う相貌が見えてくるかも知れません。矢野龍渓経国美談』も最終的には暴力で独裁者を打倒する物語ですが、そこに至る過程は分析の必要がありそうです。

 大逆事件に多大な関心を持った石川啄木の短編小説「我等の一団と彼」も、ぱっと見は新聞社内の小派閥形成を描いたスケッチにすぎないのですが、「独裁の止め方」という方向から論じられそうです。

 現時点での「独裁の止め方」としては、

 「独裁を支える諸力のうち非暴力的な側面に注目し、そこに非暴力的に働きかける」

 といった方向を構想しています。