前回ご紹介した、『作家と戦争 太平洋戦争70年』(河出書房新社 2011・6・30)ですが、なぜか訪問者の方が多かったので(当社比5割増し)、ご関心をもたれる方も多いものと思い、ひきつづき取り扱います。
川村 日本で核の恐怖、問題を積極的に描き続けてきたのは、やはり大江健三郎だと思うんです。ところが(略)近年、ヒロシマもナガサキも、原爆も原発もほとんど主題にしないし(略)見当たらない(原発に関しては大江さんは最初の頃、明らかに肯定的だった)。
(略)
成田 大江さんは原爆の問題(略)を一貫して考えていると思います(略)『世界』(二〇一一年五月号)に書かれた、東日本大震災を論じた論稿でも、加藤周一さんのエッセイを紹介し、原爆と原子力発電は同じ核分裂にかかわる問題であることを論じています。大江さんについては、私と川村さんとで、解釈と意見の分れるところのようですね。(同書82~83ページ)
川村発言が単なる不勉強の産物であることは以上の通りですが、成田発言はもっと深刻です。川村「原発に関しては大江さんは最初の頃、明らかに肯定的だった」に対して、何一つ誠意ある回答をしていないからです。 これが「解釈と意見の分れる」ですむ問題かどうか。再度、1968年5月当時(福島第一原発建設中)の大江健三郎の発言を引用します。
(略)
核開発は必要だということについてぼくはまったく賛成です。このエネルギー源を人類の生命の新しい要素にくわえることについて反対したいとは決して思わない」
原爆と原発が同じ問題などとは「まったく」「決して」書いてありません。解釈と意見の違いなど生じようもない一節です。
1968年5月という反理性の時代(それは今日のアカデミズムにも暗い影を落としています)の産物であることは確かにせよ、過去のあやまちを隠して、被災者に何も寄与しない(わが311体験についてはいずれまた)偽善をふりまくだけの大江や、そのごまかしに貢献する成田に、私は文学に携わる者としての誠実さを見ることはできません。
『作家と戦争』への批判はここまで。核エネルギーの今後については、もう少し頭を冷やしてから論じます。
(菅原健史)