柄谷行人の「哲学の起源」を読むために、『新潮』をまとめ借りしてきたのですけど、前にななめ読みした時の印象を超える感想は持てませんでした。とにかく情報量が乏しすぎるのです。
で、ついでなので他の文章をあれこれ読んでいたら(正直なところ、2011年の純文学というやつは私はさっぱり理解できないのですが)、これはという一節を見つけました。
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「フクシマ」の脅威とはなにか。それはドゥルーズの用語に正しく従うならば「潜在性」の脅威である。(略)
潜在性については、浅田彰の解説をまず引いておこう。
「ジル・ドゥルーズのわかりやすい言葉でいえば、この現実のほかに可能性があるということではなく、ほかならぬこの現実が潜在性においていかに多層的で豊かであるかを発見することが重要なんだ、と。そこのところを、そのあとで出てきたSFやアニメやコンピュータ・ゲームの類は全部間違えている」(中沢新一との対談「オウムとは何だったのか』(「諸君!」1995年8月号)
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・・・私は浅田彰もドゥルーズも、『諸君!』誌も中沢新一も、斎藤環もラカンも信用しませんけど、この問題提起はまじめに検討するに値すると思います。「ほかならぬこの現実がいかに多層的で豊かであるか」。いい言葉です。たとえ浅田彰やドゥルーズごときの言葉でも。
くしくも私はきのう、PS版の『ドラゴンクエスト検戮鯒磴辰燭箸海蹐任后8義張侫.潺灰麋任箸枠勛に細部の異なるこのコンピュータ・ゲーム。第六部ピサロ編が存在するという以外の予備知識は何もない状態で、いずれ同時進行レポートを書くつもりです。はたして、お姫さまは魔王を救えるのでしょうか。