核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

福沢諭吉 「肉食之説」(1871(明治3)年) その2

 今回の『安愚楽鍋』論のテーマは「痛ましさ」の予定だったのですが、のっけからけちがつきました。
 仮名垣魯文も影響された福沢諭吉の、「肉食之説」(「の」ではなく「之」でした)より。
 
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 抑も其肉食を嫌ふは豚牛の大なるを殺すに忍びざる乎。牛と鯨と何れか大なる。鯨を捕て其肉を喰へば人これを怪まず。抑も生物を殺すときの有樣を見て無殘なりと思ふ故乎。生た鰻の背を割き泥龜の首を切落すも亦痛々しからずや。 
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 言ってることはその通りなんですけど。なんでしょうこの腑に落ちなさは。
 ウナギやカメの料理だって痛々しいことに変わりはありません(実際に見たことはありませんが、手塚治虫の『火の鳥 鳳凰編』で、カメに転生した主人公が首を斬られる場面は鮮烈に覚えています)。
 しかし、なんでそれが肉食を積極的に勧める根拠になるのでしょうか。むしろ「ならばウナギやカメを食べるのもやめよう」という結論になるのが自然なはずです。
 結局、福沢諭吉のこの論は、「西洋では肉食が常識だから真似しよう」という以上のことは言っていないのです。私は彼をまじめな思想家とは思いません。
 ならば仮名垣魯文はどうか。「食べられたウシだって、来世は人間に生まれ変われるかもしれない」なんて怪しい理屈で、説得される人間がいるとは思えません。しかし、魯文は少なくとも、福沢があっさり切り捨てた、「動物を食べることの痛ましさ」を問題にしているのです。
 それは魯文の旧時代的な感性の問題にすぎないのか(実家は魚屋だったそうです)。どうか。
 また来週から、答えを求めてマイクロリールをぐるぐるする仕事が始まりそうです。