今回の『安愚楽鍋』論のテーマは「痛ましさ」の予定だったのですが、のっけからけちがつきました。
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抑も其肉食を嫌ふは豚牛の大なるを殺すに忍びざる乎。牛と鯨と何れか大なる。鯨を捕て其肉を喰へば人これを怪まず。抑も生物を殺すときの有樣を見て無殘なりと思ふ故乎。生た鰻の背を割き泥龜の首を切落すも亦痛々しからずや。
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言ってることはその通りなんですけど。なんでしょうこの腑に落ちなさは。
しかし、なんでそれが肉食を積極的に勧める根拠になるのでしょうか。むしろ「ならばウナギやカメを食べるのもやめよう」という結論になるのが自然なはずです。
結局、福沢諭吉のこの論は、「西洋では肉食が常識だから真似しよう」という以上のことは言っていないのです。私は彼をまじめな思想家とは思いません。
ならば仮名垣魯文はどうか。「食べられたウシだって、来世は人間に生まれ変われるかもしれない」なんて怪しい理屈で、説得される人間がいるとは思えません。しかし、魯文は少なくとも、福沢があっさり切り捨てた、「動物を食べることの痛ましさ」を問題にしているのです。
それは魯文の旧時代的な感性の問題にすぎないのか(実家は魚屋だったそうです)。どうか。
また来週から、答えを求めてマイクロリールをぐるぐるする仕事が始まりそうです。