※
(前段略。人間と動物の違いは実体的に明確なのかについて)
イタリアの重要な哲学者アガンベン(一九四二~)の『開かれ』(二〇〇二)においても、大博物学者リンネ(一七〇七~七八)が人間(ホモ・サピエンス)の自存性・独立性・弁別性を明確に規定しようとして苦労したという記述がある(第七章)。アガンベンはそれに続けて次のようにいっている。ホモ・サピエンスとは実体でも、明確に規定された種でもない。それは人間的なものの再認を生み出すための機械であり、人工物だ。「人間だ」ということは或る人間を「人間としてみる」ということと相即的である。その背面には、或る他の人間を「人間としてはみない」ということが控えている。人間はあるいは迎え入れられ、あるいははじき飛ばされる。特に近代以降の承認・排除連関の成り立ちを、アガンベンは近代の〈人類学的機械〉と呼んだ。
〈人類学的機械〉は或る人間を同胞として手厚く処遇するその傍らで、他の人間たちを動物化し、非人間化することも厭わない。その非人間化の凄まじさは、例えばナチスの強制収容所でのユダヤ人たちの処遇のような形を取ることになる。
(212ページ)
※
読んでて矛盾を感じます。人間と動物の違いが虚構にすぎないとしたら、ナチスの強制収容所も食肉工場も大差ないことになるでしょうに。人間が特別な存在だからこそ、ナチスや毛沢東が人間に対してした大量殺戮は許しがたい行為なのです。
宮沢賢治やジャイナ教徒は「人間も動物も同じ」という考えを一貫するために菜食主義を選びました。仮名垣魯文や私は、「人間は動物とは違う」と思えばこそ肉を食べているわけです。アガンベンはそのどちらでもないように思われます。
まだ批判したいことはあるのですが、もう一度アガンベンそのものを読み返してからにします。