核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

アルキビアデースとペリクレースの対話―多数者の専制をめぐって

 クセノフォーン『ソークラテースの思い出』(岩波文庫 一九五三 原著は紀元前三八五年頃)より。
 今回は長音あり表記で。『経国美談』よりも古い時代ですが、ヘージアスのモデルはアルキビアデースだという説もあり、まんざら無関係な話ではありません。
 では、アルキビアデース(アテーナイ崩壊期の指導者)と、ペリクレース(アテーナイ全盛期の指導者。パルテノン神殿を建てた人)、新旧リーダーの対談を。

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 伝わるところによれば、アルキビアデースはまだ二十(はたち)にもならぬときに、彼の後見人であり国家の第一人者であったペリクレースと、次のような問答をしたという。
 (前半省略。法律と圧制の違いをめぐる問答の後に)
 「少数の者が多数の者を説得を用いないで強制する法文を出したら、われわれはこれを圧制と言っていいのですか、いけないのですか。」
 「人が他人に説得を用いないで行為を強制するのは、明文にしてあろうとなかろうと、いずれも圧制であって法律ではないと私は思う。」
 「そうすると、全民衆が資産家たちに対して権力を持ち、説得しないで法文を作ったら、これも圧制であって法律ではないのですね。」
 「いや、アルキビアデース」とペリクレースは言った。「われわれも君の年頃にはこうしたことに俊敏をひらめかしたものだ。いま君が念頭においているように見えるおなじ問題を、われわれも念頭におきそして理屈をこねたものだ。」
 するとアルキビアデースが言ったそうだ。「ああ、ペリクレース。あなたがこうしたことにもっと俊敏であった頃に一緒になって見たかったですね。」
 上掲書 三六~三八ページ
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 ペリクレースは俊敏でなくなったというより「割り切った」んでしょうけど。
 キモは「そうすると、」以下の部分です。多数派が少数派を説得しないで法文を作ったら、それは法律(民主制)といえるのか。しかし、それを圧制と呼んでしまうと、そもそも民主制が機能しなくならないか。といったアポリアをアルキビアデースは問いたかったのでしょう。
 私の俊敏さレベルでは、とうていアルキビアデースを納得させる答えは出せなかったのですが……前回の調査でシャンタル・ムフの『民主主義の逆説』を読み、一つの答えらしきものを見つけました。
 意見や利害を異にする者を「敵」ではなく「対抗者」とみなす、「闘技民主主義」(「討議民主主義」の誤変換ではありません。それとは違う概念です)という提案。
 明日にでもコピーをじっくり読み込んで紹介しようかと思います。