「アレント、ムフ、ランシエール」という副題の論文が見つかり、にわかにやる気が出ております。理論苦手の私ですが、今回の『経国美談』論ではそのあたりを避けて通れないので。
で、シャンタル・ムフの民主主義観のあらましを。『民主主義の逆説』第4章「闘技的民主主義モデルのために」あたりから。
前にも書きましたが、「討議」ではなく「闘技」です。民主主義とは闘いです。ただしルール無用のデスマッチではなく。
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民主主義の目新しさはわれわれ/彼らの対立を超克することにあるのではなく―それは一つの不可能性である―、異なる方法によってそれを確立することにあるのである。われわれ/彼らの区別を複数主義的な民主主義と両立する仕方で確立することこそ、中心的な論点なのである。
「闘技的民主主義」の視座からみると、民主主義政治の目標は、「彼ら」をもはや破壊されるべきひとつの敵としてではなく、ひとつの「対抗者」として知覚されるような仕方で構築することにある。
(一五七ページ)
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民主主義社会といえど話し合い(「討議」)だけですべての問題が合意に至るわけではなく、意見・利害の相違は常に存在します。それに対するムフの立場は、話し合いの通じない相手を敵として排除・破壊するのではなく、正統な「対抗者」とみなし、「闘技」の相手として遇することにあります。
「よく機能する民主主義には、民主主義の政治的位置をめぐる活気ある衝突が求められる」(一六〇ページ)。なあなあの話し合いですませるのでもなく、相手を頭から敵視しての泥仕合でもない、「活気ある衝突」。日本の民主主義に欠けているのはその辺りだと思います。西洋でもそうなのかも知れませんが。
……しかしランシエールあたりに言わせれば、その「闘技」でさえ、その土俵に乗れない者たちをあらかじめ排除しているとか言いそうです。現に冒頭にあげた論文、田中智輝「政治において当事者とは誰か : アレント、ムフ、ランシエール」(研究論文 IIArticles II 研究室紀要 (42), 159-170, 2016-07) は、まさにランシエール的「政治」からのムフ批判を想定しています(一六七ページ)。
平等よりも平和(この「平和」は「闘技」と矛盾しません)を優先させる私の立場からすると、ムフの側に立ってランシエールと「対抗」することになりそうです。ランシエールを敵視するのでも無視するのでもなく、「対抗者」とみなすわけです。
以上の議論が『経国美談』とどうつながるかも書きたかったのですが、長くなるのでまたの機会に。