核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

トゥーキュディデース『歴史』におけるアテーナイの疫病の記述

 筑摩書房『世界古典文学全集 第11巻 トゥーキュディデース』(1971(昭和46)年)より、『歴史』(原著は紀元前432年から同411年ごろ)を紹介します。著者名は文献によってトゥキディデスだったりツキジデスだったりしますけど、今回は長音あり表記で統一します。一貫性がなくてすみません。
 あのペリクレースによる全盛期の直後、アテーナイはペロポネーソス戦争と疫病に見舞われます(紀元前429年)。ペリクレース本人を含む多くの市民が犠牲となりました。
 
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 彼ら(スパルタ王率いるペロポネーソス軍)の侵入後、数日を経ずしてアテーナイ人の間に疫病の徴候が現われた。(略)この疫病ほどに蔓延してこれほど多くの人命を奪った記録はない。初めは医師たちは何も判らないで治療していたので、何の効果も上げられなかった。かえって彼ら自身多くの患者に接するだけに、その死亡する数はきわめて多くなった。そしてこの他にもいろいろと人智の及ぶかぎりをつくしても無駄であった。神護を得ようと神社に助力を求めたり、予言やそれに類似のものを頼っても全く何の霊験も現れなかったので、終りには病に倒れた者たちもこれをあてにしなくなった。
 最初にこの疫病はエジプトの更に南のエティオピアに発生して、さらにエジプトとリュビアに広がり、ペルシア王国の各地に入ったと言われている。アテーナイには突如として現われ、最初はペイライエウスの人々を襲ったので、人々はペロポネーソス人(引用者注 敵国)が貯水池に毒を入れたのかも知れないと噂した。(略)
 私(トゥーキュディデース)自身もこの疫病を体験し、さらに多くの患者を目撃したので、それを明らかにしたい。 (略。高熱・嘔吐・痙攣・下痢などの症状をあげた後)ある者は手当てが不充分のために死亡し、他の者は手厚い看護にもかかわらず死んでいった。この疫病にはいわゆる特効薬なるものは全くなかった。
 (69~71ページ)
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 73ページの訳注(1)には、「この疫病の病名は判然としない。チブス、はしか等が考えられるが、いずれもトゥーキュディデースの描写に必ずしも一致しない場合がある。疫病はその発生のたびに形体の変わることがあるので、病名の決定はトゥーキュディデースの描写のみでは不可能のように思える」とあります。
 女神アテナの職分には「健康」も含まれているはずなのですが、あの大金かけて建てたパルテノン神殿はなんだったんだ。そう言いたくなるアテーナイ人も多かったのではないでしょうか。現代医学のありがたみをひしひしと感じます。