核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

アリストパネース 『アカルナイの人々』(紀元前426/425年上演)

 2011年11月23日のブログで、アリストパネースの『平和』(紀元前421年上演) を「人類が持ち得た最古の平和主義文学」なんて書いちゃいましたけど(http://blogs.yahoo.co.jp/fktouc18411906/archive/2011/11/23)、もう4~5年ほどさかのぼれるみたいでした。お詫びして訂正します。
 というわけで、アリストパネース(訳によってはアリストファネスだったりアリストパネスだったり。ここでは『ギリシア喜劇全集1』(野津寛訳 岩波書店 2008)の表記に従います)の現存する最古の平和主義文学、『アカルナイの人々』。推定紀元前446年生まれ、まだ20歳前後の若書きですが、これがデビュー作ではないことは後述します。

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 ディカイオポリス どうしたら平和が実現するかについては、(アテーナイの民衆や役人は)何一つ考えてくれやしない。おおポリス(国家)、ポリスよ。私はいつだって、誰よりも真っ先に民会へやって来て座っている。
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 腐敗堕落したアテーナイの民主制を正すべく立ち上がった主人公、ディカイオポリス(「正しいポリスを望む者」というベタな意味だそうです)。主戦派の地盤アカルナイ区の人々に石を投げられつつも、ディカオポリスはまな板の上で(幡随院長兵衛かい)、決死の平和演説を行います。

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 ディカイオポリス どこぞの食わせ者が、正しいことであれ正しくないことであれ、彼ら田舎者と彼らのポリスのことを褒めちぎるならば、いつでも彼ら田舎者は大喜びするのですが、そんなとき彼らは自分たちが食い物にされているとは気づいていない
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 田舎者に限ったことでも、古代ギリシアのポリス(都市国家)に限ったことでもないんですけど。で、そういう自称愛国者の実例が語られます。

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 ディカイオポリス この私自身、昨年の喜劇のせいでクレオーンによってどんなひどい目に遭わされたかを承知しているのですから(略)中傷を繰り返し、この私を虚偽の弁舌で嘗めまわすと、(略)罵詈雑言を浴びせかけ、私はその汚物の渦に飲み込まれながら、九死に一生を得たのです。
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 途中から作者アリストパネースの実体験らしき話になってます。20歳前なのに苦労してます。そして、古典喜劇の枠を超えた堂々たる反戦演説が始まります。

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 ディカイオポリス 観客である市民の皆さん、諸君はどうか私に対して悪意を抱かないで下さい。たとえこの私が乞食であるにもかかわらずアテーナイ人諸君の前で、喜劇の最中にこのポリスについて演説を行おうとしているからといって。なぜなら、喜劇といえども、正義の何たるかを弁(わきま)えているからです。(略)
 さて、この私はラケダイモーン(敵国スパルタの別名)人のことを激しく憎んでいます。(略)なにしろ、私の大切なブドウ畑もずたずたにされてしまったのですから。しかし、観客の皆さんが味方であるからこそこう言うのですが、どうして私たちはそのことについてラケダイモーン人たちを咎めることができるのでしょうか?
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 「悪いのは敵国ではなく、戦争そのものだ」という趣旨のこの演説に、コロス(合唱隊。ここではかつて主戦派だった市民たち)の間で論争が始まります。
 ディカイオポリスは反戦派市民の支持のもと、アゴラー(市場)内で独立を宣言し、敵性国民のメガラ人やボイオティア人を相手に闇市をはじめます。ここでメガラ人が娘にブタの足と鼻をつけさせて入国させ、戦争で不足した塩を密輸する場面があったりします。子ブタは古代ギリシア語でコイロス、鳴き声はコイーコイーだそうです。
 こうしてディカイオポリスたちが平和と繁栄を謳歌するのと裏腹に、今まで戦争でもうけていたラーマコス(主戦派の将軍。プルタルコスのアルキビアデス伝では清貧の武人として描かれています)たちがビンボーになっていく様が描かれて終わります。
 途中から「経済」という要素を持ち出したためにテーマがぼやけた感もありますが(こちらも知識不足であることは認めます)、平和主義文献の金字塔といえるでしょう。特に戦時下に「自分たちが今戦争を行っている相手である敵国を弁護するという非常に困難なテーマ」(解説より)を発表した勇気は讃えられるべきです。また、この劇にレーナイア祭で第一位の栄冠を授けたアテーナイ市民も。