核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

アリストパネス『蜂』(紀元前四二二年 『ギリシア喜劇全集2』岩波書店 二〇〇八)

 社会派。問題作。反戦だけにとどまらないアリストパネスの底力を見ました。
 すっぽりと網で包まれた家が舞台。裁判道楽の老人ピロクレオーン(以下、長音あり表記で)が事あるごとに裁判に出たがるので、息子ブデリュクレオーンが閉じ込めたわけです。以下、煙突や排水口から顔を出すおやじと追う息子のドタバタが一幕。
 当時のアテーナイでは裁判に出ると三オボロス(三千円ぐらい?)の日当が出る上に、有名人や金持ちの運命をこの手で決められる、一種の支配欲をも満たせたわけです。息子は裁判仕立てでおやじを説教し、その三オボロスも国庫収入から出ていること、残りの大半は民衆扇動家のふところに入っていることなどを、数字を挙げて(ここで私は「おおっ」と思いました)力説します。
 説得されたおやじは生きがいを失ってしまいます。息子は家の中で奴隷(アリストパネース奴隷制は否定していないのです)や犬や台所用品を相手に模擬裁判をやらせてみたり、社交界でのつきあい方を教えて立ち直らせようとしますが、おやじもストレスがたまっていたらしく、酔って大暴れします。「これでいいのか?」という印象を残しつつ幕。
 題名の「蜂」とは裁判道楽の老人(たち)を指すわけですが、より広くには人間の攻撃性を示していると思うのです。攻撃衝動は何らかのはけ口をあたえられないと爆発するもので、ピロクレオーンにとってはそれが裁判だったわけです。
 なお、ピロクレオーンとは「クレオーンを愛する人」の意味。クレオーンとはアリストパネースが終生の敵とした、主戦派の将軍。ゆがんだ攻撃衝動が主戦派支持の背景となる……という洞察を秘めているとしたら、これも広義の反戦劇と呼べるかも知れません。