核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

カウツキーとラブリオーラ

 もう少し、第二インターナショナル人物列伝を続けます。ラクラウ+ムフの『民主主義の革命』を読みながら。

 マルクスの予言と現実のずれにルクセンブルクは悩まされたわけですが、カウツキーの答えは「ずれてなどいない」でした。ドイツではうまく進んでるじゃないかと。

 でも、他の国ではどうなのかというと。

 

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 それは(イングランドのように)強靭なリベラルの伝統あるいは(フランスのように)民主的―ジャコバン的伝統のある国における、または(合衆国のように)民族的・宗教的アイデンティティーが階級アイデンティティーよりも支配的な国における労働者階級形成の過程とは、たしかに一致していなかった。しかし、マルクス主義聖典のなかでは……

 『民主主義の革命』六六ページ

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 ……逆にどこなら一致するんでしょうか。英仏米のどこにもあてはまらない「マルクス主義聖典」ってやつは。日本でないことだけは確かです。

 当然、カウツキー的パラダイムには「深刻な疑問符が投げかけられ」(六七ページ)、昨日書いたようにマサリクが「マルクス主義の危機」を説くことになります。

 「予言ははずれてなどいない」というカウツキーの破綻が明らかになりまして。

 ラブリオーラという人は、『共産党宣言』は預言書ではなく、「形態学的予測」だと言います。

 

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 歴史的予見は……(『共産党宣言』においては)何らかの社会形態の年代記や予想図を含意しない。そういったものは新旧の黙示録や預言書に典型的なものであったし、いまでもそうである。(略)『宣言』がはじめて示唆する予測は、年代記的な、つまり期待とか約束といった類いのものではなかった。

 (八一ページ)

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 ……いまさら「あれは予言ではなく予測だった」なんていわれてもなあ。「ブルジョアの沒落と、プロレタリヤの勝利とは、共に不可避である」(青空文庫版『共産党宣言』)って予言してきたのはマルクスとその一派じゃないですか。

 このへんまでくると、そろそろマルクスそのものがおかしいんじゃないかと思う人も現れるはずですし、実際現れます。次回はベルンシュタインの修正主義について。