核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

主人公のいない小説

 W・イーザー『行為としての読書―美的作用の理論―』より。

 

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 一八世紀小説では支配的であった主人公を頂点とするヒエラルヒーは、一九世紀になると次第に均等化の方向をたどり、「主人公のいない小説 A Novel without a Hero」といった名称が出てくるようになる。この傾向はときとして虚構の読者や語り手の遠近法にまで及び、叙述の遠近法全体の均等化が見られる。それにともない、読者視点の位置も定かではなくなってくる。従って、読者はそれに応じて、今までよりも大きな構造化の働きを求められるようになった。

 (三四九頁)

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 ……イーザーはサッカレ『虚栄の市』を念頭においているようですが(未読)、実は一九世紀(メモが見当たらないので、正確な年代は失念)日本の福地桜痴も、「主人公のいない小説を書くつもりだ」と宣言していた時期がありました。

 とはいえ、明確な主人公のいない小説でも、最初から出てくる人物に読者は感情移入しがちだとかいう傾向はあるものでして。『八犬伝』といえば犬塚信乃がリーダーみたいな雰囲気がありますし、『水滸伝』の史進も、そんなに活躍してないくせになんか印象が強いようです。ジッドの『贋金つくり』も主人公がころころ変わるけど、実質ベルナールが主人公でしょ。

 ゲームブックみたいに、「この小説は面白そうな登場人物が出る章から、好きな順番で読んでください」という小説はないもんでしょうか。PSソフト『街』はそれに近い構造です。またいずれ。