核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

なぜ福地桜痴は非戦を貫けなかったのか

 岡安著をまだ読んでいないため、山田著をもとにした仮説の段階ですが。

 日清戦争以前の福地は、非戦・非暴力を訴える新聞社説を公にしていました。

 しかし、不平士族や自由党の暴動には厳しい一方、それらを鎮圧する政府側の軍事行動は批判しない、という面も見られます。一言でいうと「暴力を止めるための暴力」を支持しているわけです。

 その結果、日清戦争をも、東学党の乱という暴力を止めるための暴力として理解していたと思われるのです。

 非戦・非暴力を貫くためには、「暴力を止めるための暴力」についても批判的な目を向けないといけないのです。お前だって警察や自衛隊に頼って守られているくせに、と言われそうですが(ゆえに、私には福地を否定する資格はありません)、なんとかして「暴力によらずして暴力を止める方法」を、生きているうちに見つけ出したい、とは思っています。