公正世界仮説とは、
「人間の行いに対して公正な結果が返ってくるものである、と考える認知バイアス、もしくは思い込みである」
とウィキペディアにありました。善人には良い報いが、悪人には悪い報いが、返ってくるという世界観で、古くは各種神話や「花咲かじいさん」のような昔ばなしにも見られ、現代人でも無意識に信じている人は多いようです。
またウィキペディアを引くと(いずれ、学術論文で補完します)、
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近年行われた研究では、被害者非難を通じた公正世界仮説の信念を維持することは、短期的な小額報酬を無視して長期的な高額報酬を選好することと関連し、長期的な目標の維持を可能にしている。また、公正世界仮説を信じている人は、生活満足度と幸福度が高まり、抑うつ的な感情が減少している。公正世界仮説が維持されることで、世界は安定と秩序ある環境であるという認識がもたらされ、心理的なバランスや長期目標、幸福感を維持する基盤となっているという指摘もある。
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なんだ、公正世界仮説を信じている方がしあわせなんじゃないか。と思われるかも知れません。「神も仏もあるものか」と考える人より、「神さま/仏さまはいつも人を見守り、行いに報いてくださる」と考える人のほうが道徳的であり、幸福でもあるというのはありそうなことです。
しかし。メルビン・ラーナーの一九八〇年の研究は、公正世界仮説の問題点にもふれています。
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ラーナーは、公正世界信念の保持が、人々自身の幸福のために極めて重要であるという仮説を立てた。しかし、人々が明白な原因も無しに苦しむなど、我々は世界が公正でない証拠に毎日直面している。ラーナーは、そのような公正世界信念への脅威を排除するための戦略を人々が使用することを説明する。これらの戦略は、合理的なものと非合理的なものがある。合理的な戦略としては、世界が不公正であるという現実を受け入れる、不公正を防止したり不公正な状態に対する補償を提供しようと努める、世界に対する人間個人の限界を受け入れる、などが含まれる。非合理的な戦略としては、不公正な出来事に直面した時に目の前の現実を否定する、そのような出来事との接触を断つ、現実を再解釈する、などが含まれる[要出典]。
不公正な出来事を、公正世界信念に適合するように作り変える再解釈の方法がいくつかある。一つは、結果や原因を再解釈したり、犠牲者の人格を再解釈することである。例えば、罪のない人々が苦しんでいるという不公正な現実を再解釈して、実は彼らは苦しむに値するだけのことをしたのだとする。具体的には、第三者が、犠牲者の格好や行為に基づいて、犠牲となったことに関して犠牲者を非難する。公正世界信念に関する多くの心理学的研究は、犠牲者非難や犠牲者の名誉棄損と言った、これらの負の社会現象にも焦点を当てている。
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ながながと引用してしまいましたが、要するに「ヨブ記」や強盗法印の問題ですね。
「あの人がこんなにひどい目にあったのは、陰で悪いことをしていたからだろう」
「先祖の悪事が子孫に報いたに違いない」
「前世で悪行を犯していたのかもしれない」
といった具合に、公正世界仮説をとことん信奉する人は、悲劇の被害者側に、ありもしない原因を想定し、ついには犠牲者を非難するに至ってしまうわけです。これ自体が不公正であり、二重の悲劇です。
これを防ぐには、ラーナーの言う合理的な戦略、つまり、
「世界が不公正であるという現実を受け入れる、不公正を防止したり不公正な状態に対する補償を提供しようと努める」
公正世界仮説を捨て、現実は不公正であると認め、その是正をはかることです。
江戸時代の無神論者、山片蟠桃が論じたような、「神も仏もない」という考えをつきつめるところから出発する倫理もあるのです。私もそれにならいたいと思っています。