村井弦斎『食道楽』への言及は多いのですが、『食道楽続編』はほとんど注目されていないようです。そんな中、ようやく続編を扱ったご論文が。二〇二三年です。
文学作品としての分析ではなく、明治時代における表記のゆれ、たとえば
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「煮汁」(だし) と「煑汁」(だし)という同語異字体、「蓮根」(はす)と「蓮根」(れ んこ ん)にみる振り仮名の相違、 「ジャガイモ」を指すのに「馬鈴薯」「じゃがいも」「ジヤガ芋」「ポテト」 「ポテツト」と合わせて 5 つほどの表現があった、というようなケースが 当時において普通に存在していた。
同論文「要旨」1頁
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という言語学的な考察でした。こういう研究も大歓迎です。
なぜ表記ゆれが生じたのか、にまではこの論は踏み込まず、事例の指摘にとどまっていますが。
ネイティブ日本人である私には、なんとなくわかる気がします。絵画やまんがやアニメでも「おいしそうな料理の描き方」があるように、文章にも「おいしそうな表記法」というのは存在すると思うのです。
かれこれ二十年近く前、私は「感覚表象とメディア」というテーマのゼミ発表で、『食道楽』本編の「クリーム」に関する表現を分析し、それが「牛乳の濃いの」や「白い餡」に擬されつつ差異化されて表現されていくことで、当時の日本人にあまりなじみのないクリーム(大原くんも、「クリームとは何だね」と言っています)を、違和感なくおいしく読めるように書いている、といったことを論じました。もし残ってたら探してみます。
その発表では扱いませんでしたが、トマトのことをやたら「赤茄子」(あかなす)と表記しているのも、日本人になじみの深い茄子に擬すことで、トマトの風味への抵抗を減らそうとしたんじゃないかと思います。
続編はろくに読み込んでいないのですが、たとえば素材としての「馬鈴薯」(ばれいしょ)が、和風に料理されると「じゃがいも」になり、洋風だと「ポテト」になる・・・・・・といった具合に差異化がなされていると面白いんじゃないかと思います。今のところ仮説ですが。