核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

F・フクヤマ『歴史の終わり』における「気概」

 はじめにお詫びしておきます。私はフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』上下(渡部昇一訳 三笠書房 1992)を読んだことがありません(話題になった当時はお金も時間もなく、余裕ができた頃には「いまさらな~」だったのです)。以下の要約は、柴田純志氏の『千葉敬愛短期大学紀要』 (16, 184a-177a, 1994-02)に掲載された書評によることをお断りしておきます。例によってCiniiで無料で読めます↓。一番下から上に向けてお読みください。現物を読むまで、この記事は「書籍紹介」ではなく「古代ギリシア」の書庫に入れておきます。
 
 http://ci.nii.ac.jp/els/110004724859.pdf?id=ART0007467691&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1314618006&cp=
 
 要約しますと、フクヤマプラトンと同じく(直接の影響というよりも、ドイツ哲学経由の間接的影響によって)、人間の本性を「欲望」「気概」「理性」の三つの部分からなると見ています。
 そして、フクヤマは「気概」をさらに対等願望(人なみでありたい)と優越願望(人より上でありたい)に分け、それら二つに加えて「欲望」「理性」のすべてを満たせるのは、リベラルな民主主義のみであるとします。冷戦が終結ソビエト連邦(現ロシア)をはじめとする社会主義国が軒並み崩壊した今(1990年代)、リベラルな民主主義を超える理念はもう出現しない。今や「歴史」は終わったのだ!
 
 ・・・約20年の時をへだてた2011年現在、フクヤマの勝利宣言が色あせて見えることは確かです。戦争・テロ・資源・食料その他の問題群について、リベラルな民主主義諸国(具体的にどことは言いませんが)はいまだに具体的な解決プランすら提示できていません。これで現在以上の進歩がありえないとしたら、歴史の終わりどころか人類のそれを危惧したくなろうというものです。
 
 私は今のところリベラルな民主主義を最善としつつも(菅政権だって、独裁政権原理主義よりはましなのです。あっさり退陣してくれる点だけでも)、それだけでは人類の「気概」を満足させきることはできないと考えています。特にフクヤマのいう優越願望だけは、政治体制をどう変えようが全員を満足させることは不可能でしょう。
 
 で、私が期待しているのが文学です。人々の「気概」を満たすのみならず、「気概」の正しい(少なくとも、より害のない)あり方について考えさせてくれる文学。そうした文学の可能性について、博士論文結論部でとりあえずの結論を出すつもりです。