核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

プラトン『国家』における「気概」について

 おかたい題ですが、古代ギリシアについての専門知識も語学力もない私には、こんな大それたテーマで学術論文を書く力はないのです。で、今回は軽くさわりだけ、岩波文庫の『国家(上)』(藤沢令夫訳)の第4巻319ページあたりから出てくる、「気概」について語らせていただきます。
 
 人間の魂は、理性と欲望のふたつの部分からできている、という人間観はよくありますが、プラトンはここで「気概」的部分という第3の部分を提示しています。
 気概とは、「勝利と名誉を愛し求める」魂の部分であると、『国家(下)』第8巻180ページに定義されております。
 これは常に良いものとは限らず、理性の側にも欲望の側にも、善にも悪にもつくことがあるといいます。こなれた日本語に訳すと、「負けず嫌い」といったところでしょうか。「オレともう一度勝負しろ!カカロット!」なあの人の行動原理を思い浮かべると、わりと近いような気がします。この気概が欲望ではなく理性に従っている状態を、プラトンは「勇気」と定義しています。
 古代ギリシア文明が衰退した中世以降の哲学では、理性と欲望の善悪二元論の前に、気概についての考察はなおざりにされてきました。現代思想にあっても、人間の気概的部分を正面からとりあげた論はまれです(いることはいるんだよなあ・・・よりによってF・フクヤマ
 
 くわしい話が知りたい方は、『国家』の該当箇所か、Cinii所収(無料です)の西尾浩二氏の下記の論文をお読みください(「プラトン『国家』における〈気概〉の概念」)。
 
 
 この「気概」が平和主義とどうかかわってくるのか。出かける時間が迫ってしまったので、またの機会にさせていただきます。