核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

『日本文学』 1月号特集 文学にとって虚構とはなにか

 日本文学協会会員限定ですけど、われと思わん方はどうぞ。
 もちろん、私も投稿するつもりです。学部時代からやろうと思って果たせずにいたテーマですし。
 そのためにも、八月中になつやすみの宿題を終わらせておきたいものです。 
 以下は『日本文学』公式サイトからの引用です。
        ☆
 文学作品は、事実そのものとは異なる虚構性を持つ表現と考えられてきた。しかし、今日では普遍的な事実への信頼が揺らぐ一方で、虚構と事実の区別があいまい化した日常の中で、虚構に対する認識のありかたも少なからず変化している。
 文学研究では、意図的な虚構である物語が「人のありさま」をよく伝えるとする、『源氏物語』「蛍」の巻の物語論が知られている。一方、説話文学作品や軍記物語、能、浄瑠璃のような芸能など幅広い作品において、伝説や風聞が内容に取り込まれているが、それらが虚構か否かを問うことは、必ずしもその時代の価値観を尊重した態度とはいえないだろう。
 あるいは、江戸時代における「実録」は、明らかな虚構を含むことによって「実」に迫ろうとする。それは事実らしさの追求の結果でもあり、また、同時に創作的な営為でもあるという点において、事実が今日とは異なる様態で存在していたことを示している。
 近代文学作品においても、事情はそれほど単純ではない。ありのままの事実を書くことを標榜した田山花袋島崎藤村の小説について、柳田國男が指摘したように、リアリティは記述内容が事実に基づくか否かとは別の次元で成立する。近代社会においても、事実の追求と虚構の表現は、必ずしも截然と区別されているわけではない。虚構に対する認識のありかたは、近代文学においても重要な問題である。
 文学にとって虚構とは何かをいま一度考えてみたい。それは、虚構性を含みながら「事実らしさ」を持つ文学作品という情報が、どのような形で社会に存在し、世界観の形成にいかに参与していたのかを考えることに他ならない。あるいはまた、以上のように述べてきた「事実」と「虚構」についての認識のあり方自体が今、問い直されなければならないのかもしれない。文学作品を虚構ととらえることなく、読み解くことは可能だろうか。多様な視点からの清新な論考をお寄せいただきたい。
  
                       記

 一、締切 2011年10月20日
 一、枚数 35枚(400字詰)程度