「女たちにとってさえ、すぐれた人間であるべきなら、そうした(引用者注 悲しみや嘆きをおびた音楽の)調べは無用のものだし、まして男子にとっては、いうまでもないことだからね」
・・・プラトンの対話編には今日でも論ずるに値する問題提起も数多く含まれていますが、信じられないほどの野蛮な思想も混ざっていることは否定できません。ほんとに音楽通なのかグラウコン。
私に言わせれば、悲しみを知らない人間は理想国の忠実な兵士にはなれても、絶対平和主義者にはなれないのです。悲しみの中の甘さ、ほほえみの中のかげりを知った者は、もはや「戦争をはじめすべての強制された仕事のうちにあって勇敢に働いている人」(『国家(上)』211ページ)になることはできないはずです。結局のところ、『国家』の作者としてのプラトンと私とでは、「すぐれた人」の定義が逆だと言われればそれまでですが。
もしもプラトンがボサノバを聞いたら、なんて無茶は言いません。
ただ、この歌は私が思い描きつつある、虚構・気概・節制・Aセクシャル・悲しみの中にある甘さといった一連の絶対平和主義をめぐるキーワードに、一筋の論理的連鎖を与えてくれそうなことは確かです。もう少し考えがまとまるまで、今回の論文のBGMに使わせていただきます。