叛乱軍に射たれたと伝えられていた首相・岡田啓介は生きていた。首相官邸から変装した岡田を救出した何人かの中に、軍令部の第三部員、平出英夫中佐が加わっている。岡田がまだ現役で軍事参議官のころ、平出は少佐で岡田の副官をつとめたからである。
(80ページ。2・26事件の時です。意外な活躍)
白鳥(敏夫)のローマ時代に、海軍の駐在武官だったのは、平出英夫大佐である。
平出が報告して来る電報に眼を通す、井上(成美)軍務局長は、平出の意見や情報分析を、細かくチェックし、時には、用箋一枚たっぷりのコメントを付けて部内に回した。陸軍武官、有末精三からの連絡電報についても同様だった。
「平出だって、あの男はフランス語が達者で、パリで補佐官もやっているが、ローマへ行ったのは、ほかにイタリア通がいないから回されたんダ。気の毒だが、イタリアってものをよく呑みこんでいない。白鳥なんかの話をハアハアといった調子で鵜呑みして、そのまま本省へ送ることがあるヨ・・・・・・」
と井上が、平出の報告を評したことがある。
(116~117ページ。井上成美は、「イタリアなどは、頼りにならんヨ!」派でした)
昭和十六年五月二十七日は第三十六回「海軍記念日」だった。(略)
「同盟から、エラく長いのが回ってきたぜ・・・・・・、どうする?」
「平出(英夫、海軍大佐)のラジオ演説でしょう。使わなくてもイイですヨ、やめて下さい・・・・・・」
「ボツにしておくか!ヨシ・・・・・・」
※追記 ボツにしてませんでした。2012年8月26日の記事と画像(http://blogs.yahoo.co.jp/fktouc18411906/archive/2012/08/26)をごらんください。