核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

杉本健 『海軍の昭和史 提督と新聞記者』(文藝春秋 1982)その2

 海軍大佐・大本営報道部第一課長、平出英夫に関する記述を中心に。()内は注記です。
 
 (徳富)蘇峰は早くから三国同盟論者で、”米英討つべし!”と主張しており、米内(光政)・山本(五十六)時代に容易にO・Kしない海軍の態度を煮え切らぬものとして、なんべんか海軍部内に働きかけていた。(略)開戦のとき、宣戦「詔書」の案文に、蘇峰は前もって眼を通している。内閣の稲田周一総務課長からこれを渡されて、彼がどの程度に手を加えたかは知らぬが、すくなくとも、「”皇祖皇宗ノ神霊上ニアリ・・・・・・”」とある所は、蘇峰が加筆したという。
 (197~198ページ。徳富蘇峰は明治20年代にはスペンサー的な進歩主義者だったり、日露戦争の講和には好意的だったりと、いいこともやっているのですが・・・太平洋戦争時の戦争責任は弁護の余地がありません。平出英夫の「海戦の精神」も大々的に報道したそうです)
 
 朝日新聞で、毎月縮刷版というのを発行しているが、それには、朝夕刊とも最終版の紙面をそのまま残してある。
 この年(1941(昭和16)年)の五月二十八日、二十九日の縮刷版に目を皿のようにして探したが、平出の放送した「海戦の精神」は、影も形も無い。
 (202~203ページ。国会図書館で他紙ともども確認してみます)
※追記 ありました。1941年5月29日夕刊一面。画像は2012年8月26日の記事(http://blogs.yahoo.co.jp/fktouc18411906/archive/2012/08/26)に添付します。
 
 女流作家で海軍ファンの吉屋信子は、平出がローマの前にパリで駐仏武官補佐官のころからの知り合いだが、このときの放送(引用者注 前記「海戦の精神」)を聞いて、
 「驚いた。そんな景気のイイこと、平出さんは浮かれて放言して、きっと免職まちがいなしと心配だった。ある海軍通の人のいうには、現在艦艇は三百、飛行機は千五百だと! だからあれはアメリカをおどかす虚勢のポーズだと。その方を信頼して平出さんのはで好きがおかしかった・・・・・・」
 と書いている。
 (208ページ。 (引用者注 平出の放送によれば艦艇五百、飛行機四千。水増ししすぎです平出。小林秀雄からは通俗作家と罵倒された吉屋信子ですけど、小林よりも鋭く平出の本質を見抜いています。まあ、吉屋信子も戦争協力は行なっていますけど。なお、私が彼女の作品をどれほど愛しているかについては後日)
 
 十二月一日(略)平出はなかなかの酒豪で、どんな席上でも、派手な酔いっぷりを演ずることに、すこしも遠慮することはなかった。
 それがこの夜の席上では、どの程度に酔っていたのかは判らぬが、突然声をはり上げて、
 「大本営発表をやるゾ。米戦艦ノースカロライナ撃沈・・・・・・」
 と叫んだものの、真向いに坐っていた私の顔を見て「ウン、これはまだ早いかナー」といった。
 (243~244ページ。早すぎます。真珠湾攻撃の一週間前に米戦艦が沈むわけがありません。成否に関わらず、あらかじめ大戦果の大本営発表を用意していて、うっかり口走ってしまったのでしょう)
 
 十五年七月、平出英夫がローマから帰って来て私達に紹介されたときは、普及部第二課長の肩書で、報道部第一課長と発令されたのは十二月である。平出は報道部入りして一般民間への宣伝を活発(引用者注 「発」は原文では旧字体)にしようと努め、打つ手にはそつ(傍点)が無かった。とにかく海軍の士官は、陸軍の野暮ったさに比べると、あか抜けているというのが、世間の通り相場になっていたが、中でも仏伊両国に駐在した平出はしゃれ男で、頭髪はそのころ流行り出した真中から分け、鼻下にチョビひげ、眼鏡はまだ珍しい四角か六角グラスの縁無しで、たぶんパリかローマで買った新型のものだった。
 (289ページ。大佐で課長という地位とはいえ、彼は新聞社やラジオとの直接交渉を掌握していたようです)
 
 (引用者注 終戦直後の札幌で)平出英夫(少将)が、グランド・ホテルの地下で、海軍の終戦連絡事務を主宰していた。
 千葉(愛雄。同盟通信の編集局長)に連れて行かれると、平出は、うす暗い事務室の中で、椅子から立ち上り、私を迎えた。
 「君にはすまなかったな・・・・・・」といったきり、あとの言葉は聞こえなかった。落涙して私の手を握る姿には、開戦の初期、海軍のスポークスマンとしての華やかな面影を、おもう暇もなかった。
 (325~326ページ。終戦前に失脚していたようです。いずれ海軍人事関係の資料をあたります)