核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

ヘミングウェイ「インディアン・キャンプ」と、石原慎太郎「通りすぎたもの」との類似

  石原慎太郎の小説「通りすぎたもの」を盗作と断定します。引用元と論拠は以下の通り。
 
A、ヘミングウェイ 「インディアン・キャンプ」(引用は『われらの時代に』 荒地出版社 1982(原著1924) 北村太郎訳 による)
B、石原慎太郎 「通りすぎたもの」(初出は『新潮』1961年5月号。引用は『石原慎太郎の文学3 亀裂/死の博物誌』 文藝春秋 2007 による)
 
 ・両者の類似点
1、男の子(Aではニック、Bでは鉄哉)が、はじめて女性の出産に立ち会い、興味を示す。
2、親(Aでは父、Bでは母)の言葉。
 A 「この人のからだ中の筋肉は、赤ちゃんを産もうとして一所懸命になっているんだ。(略)そのときは、みんな、大変な苦労をするのさ」
 B 「女が赤ん坊を生むってのは大変なことなんだよ(略)赤ん坊と一緒にお腹ん中の血が流れてしまったのさ」
3、赤ちゃんを見た直後に、男の子は死者を目撃する(Aでは赤ちゃんの父親一人の自殺、Bでは11人の大量殺人)。親は見せまいとする。
4、誕生と死に立ち会った男の子は、最後に「自分は死なない」と確信する。
 A 彼は、ぼくは死ぬものか、と非常に確かなこころで考えていた。
 B みんなが何だろうと俺は平気なんだ。俺は絶対に死んだりはしないんだ。
 
 ・両者の相違点
Aには、「インディアン」に対する差別意識は一切ない。語り手も、登場人物のレベルでさえも。
Bでは、「気の狂った廃兵」が「戦地で並べて首を切ったという支那人たちの話」を語り、「その話はいつも鉄哉を興奮させた」との挿話があるが、Aに該当する箇所はない(帰還兵の孤独な内面を描いた作品「兵士の家」はあるが、上記挿話との類似はない)。
またBの結末部には、それまでの筋とまったく無関係に、「二十歳の、若い韓国人」がひき逃げをした挿話が出てくる。それまでの舞台は「オートバイ」や、「トラック」で「一日五往復しないと飯が食えない」道路とは無縁な村であり(「提灯を下げて」との描写あり)、時代も場所も違う話と思われる。
 
 以上。
 石原自身が、「ヘミングウェイのニック・アダムズ・ストーリーに似た私の分身橋本鉄哉の死に関する情念的遍歴の軌跡である」(新潮社刊『石原慎太郎短編全集』の「後期・存在への志向の軌跡」)と認めています。収録された短編集も「死の博物誌」と、ヘミングウェイの「死者の博物誌」を思わせる題名です。
 おそらく本人は盗作ではなく影響だと言うつもりなのでしょう。が、問題は「両者の相違点」のほうです。
 11人もの大量殺人に立ち会って、何の恐怖も感じず「みんなが何だろうと俺は平気なんだ」と確信する子供というのは、ハードボイルドを通り越して非現実的です。「廃兵」の待遇から見て戦時下ではないのでしょうが、家ごとに「猟銃は茶の間に吊るされて」あり、主人公の父が大量殺人犯を銃撃戦の末に射殺するという展開もあまり日本らしくありません。なぜか警察は出てきません。
 そして最後にアスタリスク二つをはさんで展開される、これまでの登場人物と無関係な、韓国人のひき逃げ話は、一体いかなる文学的意図があるのでしょう。こちらには「警官のオートバイ」が出てきます。
 ヘミングウェイの短編の表面だけをなぞって、リアリティをさしひいて悪質な民族差別を加えただけという印象を受けます。
 これを盗作と呼ぶのは、むしろ石原慎太郎にはほめすぎです。