かれこれ10年前に書いてゼミで発表した浅草紅団論が出てきました。
たとえ世田谷文学館のノートを熟読した後でも、この基本方針は変わらないはずなので、ここに残しておくことにします。
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しかし、一見何の脈絡もなく展開される本作品のエピソード群にも、ある一貫した主題を見出すことが不可能というわけではない。(略)マスメディアと、そこから疎外された人々との関係を扱っているという共通項である。
それは例えば雑誌広告の「婦人倶楽部浴衣」を欲しがる十四歳の娼婦の物語であり、「銀座小唄」に神妙に聞き入る職工や土方の姿であり、JOAKのマイクロホンの前に紅団員を集めて「一九三〇年万歳」を叫ばせようという空想である。
映画・ラジオ・雑誌・電光ニュウスなど『浅草紅団』には多種多様のメディアが描かれているし、この作品自体、完結前から映画・演劇・レコードなどの別ジャンルとのメディアミックスを果たしてきた。
その中でも最も重要な役割を果たしていると思われるのが新聞である。その理由としては、まず第一にこの作品自体が、「東京朝日新聞」の夕刊に連載された新聞小説であること、第二に作品の内部で、作品掲載時と時期的にきわめて近い新聞記事が頻繁に引用・言及されていることがあげられる。自らも新聞というメディアの一部でありながら、その新聞そのものに対して自己言及し、新聞を批判的に考察する小説、それが『浅草紅団』である。
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ただ、モデルの有無は問題になるわけです。『近代庶民生活誌 第18巻 下町』(三一書房 1998)に引用された1936年(『浅草紅団』連載の6年後)の資料には、「紅団のお辰」という実在の不良少女の記録があるわけですが、果たしてマネしたのはどっちなのか。私としては、現実が小説を模倣していたほうが面白くなるのですが、思い込みはいけません。ノートを読んだ上で結論を出さねば。