核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

川端康成『浅草紅団』も、フロイト「文化の中の居心地悪さ」も一九三〇年。

 ともに昭和五年。正確には、『浅草紅団』は一九二九~一九三〇断続的連載。

 『浅草紅団』の弓子という主人公は、語り手の「私」には(そして大多数の読者にも)さっぱり理解できない特異な性格と行動の主なのですが、彼女の行動原理を、「文化の中の居心地悪さ」で読み解けないかとふと思いつきまして。

 川端康成ならフロイトも読んでいたかも知れませんが、同年に出た「文化の中の居心地悪さ」を読んでそのまま作品に応用したとは思いません。むしろ、第一次世界大戦関東大震災が露呈してしまった、文化というものの脆さ、文化から解き放たれた瞬間の「居心地良さ」(それはほんとうに瞬間的なものなのですが)といったものが、洋の東西を超えて共通しているのではないかと思うのです。

 横光利一の「機械」も一九三〇年で、しかも居心地の悪い小説ですけど・・・・・・横光やってる方はいっぱいいるし。かといって、『浅草紅団』論をいますぐ書けるとも思えないし。メモ書きにとどめておきます。