核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

タナトスとかデストルドーとか、死の欲動とか

 フロイトも、戦争が起きる理由については考えていたわけですが。

 彼は人間の無意識下の巨大な「死の欲動」を戦争の原因と考え、「文化の中の居心地悪さ」(一九三〇)では、もう一つの巨大な欲動であるエロースに期待しようと結び、アインシュタイン宛ての「戦争はなぜに」(一九三二)では、文化の進歩に期待しようと結びました。エロースや文化がそんないいものじゃないこと、少なくとも戦争を止める力として歴史上機能してこなかったことは、フロイト自身が「文化の中の居心地悪さ」で語ってきたことなのですが。

 どうも、自分の考え出した理論に自分で縛られているというか、現実問題と格闘するところまでいっていないという印象を受けます。一九三三年にはドイツでナチスが政権を握るのですから、「○○に期待しよう」なんてのんきなことで済まされる時代じゃないでしょうに。

 人間に破壊欲動や攻撃性がそなわっていることは私も認めます。ただ、それをフロイトのように、生物が無生物から進化した時以来の原初的な死の欲動というふうにとらえてしまうと(そもそも、それが科学的事実かも疑わしいのですが)、そもそも抑制も消滅もできないことになってしまいます。

 どうも「死の欲動」自体、フロイトの独断、二十世紀の神話なのではと私は疑います。たびたびフロイトとの比較対象に出しますが、戦争を「治すことのできる病」ととらえた星一のほうに、私は賭けたいです。