核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

文化の中で、平和的に居心地良くある方法

 前回はちょい攻撃的になってしまいました。今回はその攻撃性について、冷静に考えてみたいと思います。

 攻撃性というか破壊の欲動というか、そういうものは確実に人間の中に存在すると思うのです。それが文化の中では抑圧されるために、人間は文化の中では常に居心地が悪いというフロイトの説も納得がいきます。

 前回挙げた三人は(もう固有名はあげません)、攻撃性の発露を戦争賛美という形で実現し、自分たちだけ居心地良くなってしまったために、非難されるべきなのですが。人間の攻撃性の恐ろしさ、あなどりがたさを十分に認めた上で、それを非暴力的に発散し、平和な文化の中で居心地良くある方法はないものかと。

 前回の三人は確かに戦争扇動者ですが、直接他人に暴力をふるっているわけではありません(だからタチが悪いともいえますが)。ということは、暴力的にならずに欲動を発散し、居心地良くなる方法はあるわけです。

 バトラー『非暴力の力』は、戦闘的平和主義という概念を提示し(もちろん、暴力による平和主義という意味ではありません)、批判的能力を戦争そのものに振り向ける方向性を示唆していました。その方法が問題なのですが(バトラーは「躁病のようなもの」をその回路としているようですが、元ネタのフロイトに照らしても賛同できません)、その方向を考えてみる必要はありそうです。『戦争に対する戦争』や、「白い服の男」にならないように。