核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

フロイト「文化の中の居心地悪さ」(『フロイト全集20』(岩波書店 二〇一一)

 初出は一九三〇年。これは腑に落ちました。題名に反して心地よい読書体験。

 「宗教は錯覚だ」と論じた「ある錯覚の未来」に続く、フロイトの社会論。

 とはいえ、前半はちょい冗長。ロマン・ロランから来た、宗教の源泉は大洋のような感情だとする説に、ローマの遺跡を例にひいて長々と反論しています。要するに、大洋感情とは幼児期の記憶の遺物にすぎないと。

 以下、人間自身が作り出した宗教、文化をはじめとする現実が、いかに人間の欲動の実現を拒んでいるか、かといって未開人や過去の人々がそれより幸福であったともいえないこと。

 キリスト教の教える、「隣人を汝自身のように愛せよ」や「汝の敵を愛せ」が無理な要求であり、守りようがないこと。

 世界史上の戦争の数々(第一次世界大戦含む)から導き出される以下の結論。

 

   ※

 人間とは、誰からも愛されることを求める温和な生き物などではなく、生まれ持った欲動の相当部分が攻撃傾向だと見て間違いない存在なのだ。

 (一二二頁)

   ※

 

 共産主義者はそれらの悪から脱却する道を見つけたと信じているが、それはフロイトから見れば何の裏付けもない錯覚であること。「ソヴィエトが自分たちのブルジョワを根絶した後で、いったい何を始めることになるやら、気がかりで頭をひねらざるをえない」(一二六頁)。

 隣接し近似する共同体どうしの敵対視。スペイン人とポルトガル人、北ドイツ人と南ドイツ人、イングランド人とスコットランド人など。(フロイトは言ってないけど、日本人も・・・・・・)。名付けて、「小さな差異のナルシシズム」(同)。

 「攻撃傾向を比較的害のないかたちで手軽に満足させ、そうすることで共同体の成員にとって結束しあうのが容易になる」(同)。

 「ゲルマンの世界制覇の夢が、その不可欠の要素としてユダヤ人の排斥を声高に叫んだのも、何ら不可解な偶然ではなかった」(同)。

 人間の攻撃傾向について述べたこの一二六頁前後は示唆に富んでおり、コピーしておこうかと思います。

 ただ、フロイトが「快原理の彼岸」その他過去に論じた欲動論とすり合わせを試みる段になると、成功しているようには思いません。先の攻撃傾向とは、死の欲動の「一部が外界に向かい、そうすると攻撃や破壊への欲動として表面に現れる」(一三〇頁)と結論していますが、どうなのでしょうか。ともあれ、フロイトは「エロースと死」という欲動の二元論で、攻撃傾向を含むもろもろの人間の欲動を理解しようとしています。

 そして「超自我」という概念が出てきます。「文化は個人を弱体化、武装解除し、占領した町で占領軍にさせるように、内部のひとつの審級に監視させることによって、個人の危険な攻撃欲を取り押さえるのである」(一三六頁)。心の中の監視者、一般に良心と呼ばれているものです。このへんの説明は、「文化の中の居心地悪さ」だけだとちょっとわかりずらかったので、「自我とエス」あたりを読んでみようと思います。

 フロイトの分析はもっともらしいのですが、では治療法、具体的には攻撃欲動が戦争という形で噴出するのを防ぐ方法となると、フロイトは断言を避けています。

 

   ※

 人間は今や、こと自然の諸力の支配に関しては目覚ましい進歩を遂げ、それを援用すれば人類自身が最後のひとりに至るまでたやすく根絶しあえるまでになった。人々にはそれが分かっており、現代人をさいなむ焦慮や不幸、不安の少なからぬ部分は、これが分かっているという事実に起因する。「天上の力」のもう一方、永遠のエロースには、ひとつ奮起して意地を見せてくれることを期待しようではないか。だが、その成否や結末はいったい誰に予見できよう。

 (一六二頁)

   ※

 

 これで終わり。肩透かしの感はありますが、私なりに考えてはみます。