核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

フロイト「ある錯覚の未来」に出てきた「かのように」の哲学

 日本近代文学研究者にとっては、森鴎外の短編の題名でおなじみの「かのように」。

 旧仮名のままだと「かのやうに」。

 そのもとネタであるハンス・ファイヒンガーの『かのようにの哲学』が、フロイト

「ある錯覚の未来」で引用されてました。思えばフロイトと鴎外も同時代人。

 そもそもフロイトに言わせれば、宗教なんてものは、人間自身が作り出した表象・錯覚にすぎない、というのが大前提なわけですが、それへの反論の試みとされるものを、フロイトは二つ挙げています。

 一つは、「不条理ゆえにわれ信ず」。フロイトはこれを「理性以上の審級はない」とあっさり退けています。

 もう一つが、「かのように」の哲学。宗教には確かに不条理な点が多々あるが、宗教は、「人間の社会をきちんと維持していく上でおよそ他のものとは比べられない重要性を持つゆえ」(「ある錯覚の未来」『フロイト全集20』三一頁)に、たとえ嘘と知っても、宗教が真実である「かのように」振る舞わなければならない、という主張です。

 フロイトは「かのように」論を一蹴しています。フロイトの子供は、おとぎ話を聞くたびに、「それは本当の話なの」と聞き、そうじゃないと答えると馬鹿にしたような顔をして向こうへ行ってしまうそうです。哲学者でもない大多数の人間にとっては、宗教を嘘と知りつつ、真実である「かのように」振る舞うことなどできないのです。

 鴎外の短編の方でも、実証的な歴史学者を志し、神話を奉ずる父との衝突に悩む五条秀麿の「かのように」論は、画家の友人綾小路に「駄目だ」と言われてしまいます。「人に君のような考になれと云ったって、誰がなるものか。(略)みんな手応えのあるものを向こうに見ているから、崇拝も出来れば、遵奉も出来るのだ」(森鴎外「かのように」 青空文庫より引用)と。

 

 「所詮父と妥協して遣る望はあるまいかね」

 「駄目、駄目」

 (同)

 

 華族のお坊ちゃま歴史学者の研究がどうなろうと知ったことではないのですが、この「父」をフロイトのいう超自我のことだと読むと、まんざら他人事ではないのかも知れません。

 おそらく世界で最初に宗教を否定したクリティアスは、三十人政権の暴政を生み、同じく宗教を否定したマルクスは二十世紀の大量虐殺を生み出しました。もちろん宗教も暴政や虐殺と無縁ではありませんが、宗教というリミッターがはずれた思想もそれはそれで危険なのです。無神論者の一人として考えておくべき問題です。「かのように」論ではない答えを出さねば。

 またバトラー著の感想に戻りますが、超自我の束縛から解放された躁状態が「非暴力の力」になる・・・・・・というのがバトラーの主張だとしたら、同意できません。