まず、バトラーの躁病観から。
※
もちろん私は躁病を擁護したいわけではないが、それは、権威的で暴政的な支配に反対する反乱的連帯の「非現実的」諸形式を理解するための鍵を提供してくれる、と強調しておきたい。
(バトラー『非暴力の力』一七六頁)
※
もちろんバトラーは、みんなが躁病になれば戦争はなくなる、なんてことは言ってません。言ってないのですが、
※
戦争に対して向けられた憎悪は恐らく、主体を暴君から解放する唯一の力である躁病のようなものだろう。両者は、批判的能力の感覚をもう一つの感覚に向けることで、社会的帰属のナショナリズム的、軍国主義的形式と決別するのだ。異議申し立てのデモクラシー化の名において活性化された批判的能力は、戦争に反対し、ナショナリズムの陶酔に反対する能力であり、好戦的権威への服従が義務だとする指導者に反対する。
(同書一八八~一八九頁 傍線引用者)
※
「戦争に反対し」はいいんですけど、「躁病のようなもの」とはそんないいものなんでしょうか。バトラーが依拠しているフロイトは、「喪とメランコリー」(『フロイト全集14』)で、躁病を「貧しい人間が突然大金を手に入れ」たり、アルコールでの酩酊になぞらえたりして、「それほどまでに陽気な気分になるとともに、他方でそれほどまでに行為に制止がなくなる」点も指摘しています(同書二八七~二八八頁)。
一国の社会が(少なくともマスメディアが)挙げて躁病的になった例は、日露戦争期や太平洋戦争緒戦期にもみられます。やれバイカル湖まで占領しろだの、「カナダだつて、スエズだつて、パナマだつて もうとうに塗りかへてるんだぜ」(北原白秋「大東亜地図」)だのといった具合に、自分らの力量も顧みない計画に乗り出すのは、まさに「躁病のようなもの」です。
日露戦争期の「躁病のようなもの」は、よりによって、戦争を講和で止めようとした明治政府に反対する日比谷暴動事件を起こし、太平洋戦争期のそれは大日本帝国そのものが滅亡する敗戦をもたらしました。実際の躁病やアルコール酩酊でも、おとなしいはずの人間が暴力的・攻撃的になる例は見られます。
心のなかの統治者(超自我)から解放されるのと、実社会の統治者に抵抗するのとでは、違うと思うのです。とるべき方法も拠るべき倫理も。
だからバトラーは「躁病を擁護したいわけではない」と書き、「躁病のようなもの」が戦争に反対する批判的能力となる、と書き分けているのかも知れませんが、『非暴力の力』を最後まで読んでも、その違いは見えてきませんでした。