核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

福沢諭吉が見た福地桜痴(『福翁自伝』より)

 福沢諭吉と福地源一郎(桜痴)は、明治前期に「天下の双福」とならび称された著名人なのですが、福沢が福地について語った文は少ないようです。
 その数少ない例外。慶應通信福翁自伝』(1957(昭和32) 原著1899(明治32))166ページ、「王政維新」の章より。
 双福がまだ江戸幕府に仕えていた頃の話。
 
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 御家人のことを旦那といい、旗本のことを殿様というのが一般の慣例である、ところが私は旗本になったけれども、もとより自分で殿様なんてばかげたことを考えるわけもなければ、家内の者もそのとおりで、平生と少しも変わったことはない。そうするとある日知己の幕人 たしか福地源一郎であったかと覚ゆ が玄関に来て、「殿様はおうちか」「イーエそんな者はいません」「おうちにおいでなさらぬか、殿様はご不在か」「そんな人はいません」と取次の下女としきりに問答している様子、狭い家だからスグ私が聞きつけて、玄関に出てその客を座敷に通したことがあるが、なるほど殿様といって下女にわかるわけはない、私の家の中で言う者もなければ聞いた者もない言葉だから。
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 福地のほうは対照的に殿様ぶりたがる人で、明治になってからも豪華な生活ぶりで「池の端の御前」と呼ばれています。
 この時すでに、福沢は、
 「第一、幕府の門閥圧制鎖国主義がごくごくきらいでこれに力を尽す気はない。
   第二、さればとてかの勤王家という一類を見れば、幕府よりなおいっそうはなはだしい攘夷論で、こんな乱暴者を助ける気はもとよりない」
 (上掲書167ページ)
 と達観していました。小栗忠順のもとで立憲幕府制への改革を志していた福地との意識の違いでしょう。