戦前の日本では、デモクラシーを「民本主義」と訳した例はあっても、「民主主義」という言葉はなかった。という誤解がかなり広まっているので、反証を提出します。
福地桜痴が幕末から明治前期を回顧した「新聞紙実歴」の一節です。
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余は従来激烈の自由主義を喜びたる論者なりき(既に明治四年米国の旅館にて伊藤伯と論じ、日本将来の政体は帝王を上に戴きたる民主政治(デモクラシー)を行ひ、今日の制度式格は都て之を全廃せざる可からずと主張し(略)議論三日に渉りたる事もありし程なりき)。
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この「民主政治」論でも、伊藤博文にとっては過激すぎる議論だったわけですが、「帝王を上に戴」かない米国のデモクラシーに比べれば激烈ではないと桜痴は考えていたようです。欧米のデモクラシーについては、桜痴は「民主々義」という訳語を当てています。
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余は屡々欧米の実況を見聞して、民主々義の利弊如何を知得たり。代議政体の如き、政党政治の如き、常に利害の相伴ふ所たるを知得たり。政治に急激の革新あるは国民の幸福に利あらざるを知得たり。自由の語は仮りて以て如何なる暴戻をも行ひ得べきの恐あるを知得たり。
(329ページ)
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民主々義もいいことばかりではない、と悟った桜痴は、こうして漸進主義(ぜんしんしゅぎ。ゆっくり進む主義)に転じたわけです。
一方、この「新聞紙実歴」には、自由民権運動が盛んになった明治14年頃には、東京の諸新聞紙は大抵みな「急進論と民主説とを主張して」、このまま行けば「世論は非常に激烈なる民主々義」に化せられてしまう、という情勢だったとも書かれています。