核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

デカルトの慎重さ(伊藤勝彦『デカルトの人間像』勁草書房 1970)

 「デカルトの慎重さ」(la prudence de Decartes)については、専門家の間でも意見がわかれているようです。
 以下、伊藤勝彦氏の『デカルトの人間像』より、諸説を紹介した箇所を引用します。本来、こちらを先にすべきでした。
 
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 ガリレイ事件は一六三三年六月二十三日におこった。(略)デカルトはこの事件を五ヶ月後にやっと知ったのだが、それはちょうど『宇宙論』の草稿をメルセンヌに送ろうとしていたときだけに驚いた。(略)デカルトはこの地動説にもとづく自分の体系が正しいことを確信していたけれども、教会との衝突はあくまでさけようとして、自説の公刊を断念した。そこに多くの史家は、デカルトのきわめて慎重な政策的配慮をみるのである。自分の説が教会を脅し、世間の物議をかもす、きわめて革新的な性質のものであることをはっきり意識しながら、これを世間の眼から隠し、そのような危険な学説に自分は縁もゆかりもないのだというようなふりをする。あからさまに人の眼をくらまし、仮面をかぶっているとしか思えない。
 そこでマキシム・ルロワは、デカルトを《仮面の哲学者》(le philosopheau masque)としてえがきだすのである。
 (36~37ページ)
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 以上がデカルトを「仮面の哲学者」と呼ぶルロワ説です。それに対して、デカルトを《仮面なしの哲学者》(le philosphe sans masque)とみるのがアンリ・グィエ説。グィエによれば、デカルトは「いつかは教会が地動説をみとめる日もくるにちがいない。ガリレイは発表をいそいだためにへまをしでかしたが、自分は同じ愚をくりかえすまいと考えた」(『デカルトの人間像』 43~44ページ)と弁護しています。
 以上の先行研究をふまえた上で、私は「仮面の哲学者」説に同意します。ガリレイやブルーノが「発表をいそいだためにへまをしでか」さなかったら、教会は決して自らの間違いを認めず、暗黒の中世は終わらなかったでしょうから。時代を問わず、自分のまちがいを認めない、軽蔑すべき人間は存在するのです。
 「ヨク隠レタルモノハヨク生キタリ」(『デカルトの人間像』 44ページ)というデカルトの個人的な信条を、非難するつもりはありません。
 しかし、そういう人ばかりでは進歩はないのです。