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私がそれによって永遠で、無限で、全知で、全能で、自己自身のほかなる一切の事物(もの)の創造者たる、或る至高なる神を知解するところの観念は、有限なる実体を表示する観念よりも、まさしくいっそう多くの思念的実在を自らのうちにもっている、ということは疑いをいれぬところであるからである。
(58ページ)
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「この株を買えば永遠に無限に儲かります。こんなうまい話が嘘のはずはないでしょう」という証券マンがいたら、私は確実に疑いますけど。まあ、素人の私がどうこう言う前に、伊藤勝彦『デカルトの人間像』(勁草書房 1970)が紹介している、ジャック・マリタンの批判を。
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三角形の本質をいかに明晰、判明に理解するにせよ、三角形が事実存在するということはいえない。三角形は存在しうるといえるだけである。これと同じように、神の本質から直ちに存在を導きだそうとすれば、このような可能的存在に到達するだけで、神の無限に充実した、現実的存在にはいたりえない。本質から存在をとりだすことは存在を本質化してしまうことである。この意味では、ジャック・マリタンが指摘するように、デカルトは本質と存在を混同し、存在を本質に化してしまっているとの謗りをまぬがれえないだろう。
(113ページ)
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このマリタンという人は無神論者ではなく、「マリタンは、近代を中世という理想的精神世界からの頽落の歴史と解釈する」(49ページ)ような人です。そういう人でさえ納得できなかったわけです。