ちょっとだけデカルトに戻ります。今すぐ小林秀雄について書いても、以前にandew様に反論したのと同じ内容を繰り返すだけになりそうなので、少し冷却期間をおくことにさせていただいたわけです。「機械は考えることができるか」という問題とも、まんざら無関係ではありません。
反論2 歩行も踊りも、すべての働きの基体は物質である。思惟する事物(もの)も、物質から分離することはできない。
答弁2 思惟的働きは物体的働きといかなる類縁ももっていない。
反論3 「私の思惟」から「思惟する私」が区別される、というデカルトの論は不明瞭である。
答弁3 「思惟する私」が「私の思惟」から区別される、ということは否定しないし、不分明だとも思わない。
答弁4 「想像」と「純粋精神」の違いについては、すでに第二省察で説明した(蜜蠟の例)。
反論5 人間やキマイラや天使については、すぐに頭に映像が浮かぶ。しかし神の映像は浮かばない。デカルトのいう「神の観念」は本当にあるのか?
答弁5 たしかに神の映像は浮かばないかもしれないが、ここでいう「観念」とは知得の形相のことであって、これ以上に適切な名称はない。
反論6 動物は言葉を持たないが「主人が走っている」ぐらいの思惟はできる。人間と動物の間には類似するものもあるのでは。
答弁6 「人間が走るのを見る」ことと、それについて考えることは別。「ここでは私は答弁を要するものには何も気がつきません」(221ページ)。
反論7 「神の観念」がもし人間に与えられていないとしたら、デカルトの探究はそっくり無駄になるのでは。
答弁7 神の観念が人間に与えられていることは明瞭であって、その反論はそっくり無駄になる。
反論8 肉眼で見る太陽と、望遠鏡で見る太陽の大きさは違う。「観念」が感覚に欺かれる例。
答弁8 外見よりも幾倍も大きいと推理によって理解されるもの、それを私(デカルト)は観念と呼ぶ。
この調子で16番まであるのですが、長いのでいったん切ります。
6番あたりから、売り言葉に買い言葉現象が起きているようです。大哲学者でも感情的になってしまうことはあるわけです。反省材料とします。