核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

第二反論と答弁(白水社『デカルト著作集 2』 1973 より)

 省察六番勝負その二。今回は長いので、私の余計なコメントははさまず要約に徹します。
 
  ・メルセンヌによるとされる第二反論
 1 「物体が思惟することはありえない」とデカルトは前提しているが、そう断言できるのか?。
 2 デカルトの言う「神の観念」は神自身からというより、キリスト教国で生まれた環境から得たのではないか。異教国生まれだったら?。
 3 神が存在するとしたら、なぜ現実世界には多くの悪しきものが存在するのか?。
 4 神が嘘をつくことをデカルトは否定しているが、聖書にはそういう例は多々あるのでは?(モーゼとか)。
 5 「明晰かつ判明ならざる概念を追うと危険に直面する」というデカルト懐疑論を徹底すると、何もできなくなるのでは?
 6 デカルトの神の証明では、「神は実際に存在する」ではなく、「存在するはず」としか言えないのでは?
 7 精神の不死性についても論じるべきでは。
 
  ・それらへのデカルトによる答弁
 1 思惟できるのは精神のみである。精神で物体は区別される。ゆえにいかなる物体も思惟するということはありえない。
 2 「神の観念」は、すべての人々が一致して同じように概念している。それが最初に流出したその元は神である。
 3 神は全く無限なので、いかなる被造的な事物をも排除することはない。
 4 それらは普通の人の理解に合わせた話法形式であって、積極的な虚言ではない。
 5 実生活レベルでなら明晰さにこだわらずともよい。真理の観想では徹底的にこだわるべき。
 6 神の本性には、存在するということが属する。ゆえに神は存在する。
 7 『省察』では書かなかったが、身体が死んでも精神は絶滅しないと考えている。
 
 ・・・「2」から先の論点を読む限り、私は反論のほうに同意します。「3」「4」などは、「嘘も方便」のキリスト教版としか思えません。
 今回の収穫は「1」、「物体は思考できるか」あたりにありそうです。そして次回はドーバー海峡を渡って思考する物体が来襲。ご期待ください。